巡礼記

熊本巡礼記 1
本物の陣中旗、ぜひ見たいものです。天草四郎時貞もその陣中旗に確かに触れたことでしょう。(管理人)

熊本巡礼記 1
(寄稿 M.D.)

「今回の巡礼のきっかけ
前回天草へ巡礼に行った時、天草キリシタン館では、天草四郎時貞の陣中旗のレプリカが展示されていました。その展示の脇に、現物の一般公開が年4回あるとの掲示があり、ぜひ本物が見たいという思いで今回の巡礼を決めました。また、前回できなかった、Aさんと一緒に祈りを捧げることも目的でした
後に、Aさんから小笠原玄也一家という殉教者の墓地のことを教えていただき、そちらを訪れることも目的の1つとなりました。

2016年11/4 9:45着 10:00ミサ C教会
この日は初金だったので、御ミサに与り御聖体を拝領したいと思い、C教会へ向かいました。ひどく道に迷い、御ミサに間に合うかひやひやしましたが、なんとか15分前に到着しました。

この日は大聖堂はカギが閉まっており、所属の信者の方に、信徒会館内のテレジアの間にて御ミサが行われると教えていただきました。


その部屋に入ると、皆さんでロザリオを祈っているところでした。初金の御ミサの前にロザリオを祈っているとは、素晴らしいなと思いましたが、ベールを被っている方が1人しかいらっしゃらず、私としては予想外なことで暗い気持ちになりました。以前天草で御ミサに与った時には、女性は全員ベールを被っていらっしゃったので、熊本県の教会ではベールに関して安心していたところがあったのですが、天草という場所柄だったためなのでしょう。

御ミサが説教まで進むと、話し合いのような説教の時間だったので、ただただ驚
いていました。(「・・・はどうかな?」のように質問され、答えるというような。)};

thumbnail_宮津海遊公園

また、焼き物のカリスも、初めて見て驚き、違和感を感じましたが、それは今までカリスは金属製が当たり前だと思っていたせいかもしれません。

集会室のような一室での御ミサだと、御ミサを捧げるには難しい空間であるように感じました。話をしてしまう場所には、それなりの理由があるものです。祈るためには、特に御ミサを捧げるためには、荘厳な空間が大切だと痛感しました。

11/4 12:15着 宮津海遊公園→天草四郎メモリアルホール
天草四郎の出生地との説のある大矢野には、天草四郎メモリアルホールがあります。前回往き切れなかった場所の一つです。

この日は晴天で暖かかったので、まず近くの宮津海遊公園へ行き、大変よい景色の中を歩きながらロザリオを祈りました。

天草四郎メモリアルホールは、資料館というより、体験的に学べるテーマ館といったほうがいいと思います。なぜ「自由と平等」を求めて革命の戦いを起こすに
11/4 12:15着 宮津海遊公園→天草四郎メモリアルホール
天草四郎の出生地との説のある大矢野には、天草四郎メモリアルホールがあります。前回往き切れなかった場所の一つです。

この日は晴天で暖かかったので、まず近くの宮津海遊公園へ行き、大変よい景色の中を歩きながらロザリオを祈りました。

天草四郎メモリアルホールは、資料館というより、体験的に学べるテーマ館といったほうがいいと思います。なぜ「自由と平等」を求めて革命の戦いを起こすに

thumbnail_天草四郎メモリアルホール

至ったのかという観点で、島原・天草一揆での天草四郎と民衆の姿を、映像やジオラマで見ることができました。しかし、天草四郎が美少年で、傀儡であるということや、魔術を使ったなどという説明を聞くと、曲解されている印象を強く受けました。また、「自由と平等と博愛」に焦点を当て、フランス革命と比較している展示を見ると、更に論点がずれてしまっていることに対して、非常に残念に思いました。

11/4 15:30着 カトリック本渡教会
現在天草地区は、1人の司祭が3つの教会を掛け持ちしている状況です。
前回崎津教会を訪れた際に、他の教会でも御ミサに与りたいと思いましたが、

thumbnail_カトリック本渡教会

今回は主任神父様が長期海外出張中という、残念な時期に訪れてしまいました。
せめて御聖体訪問でもと考えて、本渡教会へ立ち寄りました。

落ち着いたいい雰囲気の教会だったので、この後まだ予定があったにもかかわらず、気付いたら1時間ほど祈っていました。

神父様が、3教会掛け持ちになる前のミサの予定を見ると、当時は毎日御ミサがあったようです。それが今は、週3回に減ってしまったと、たまたま教会で奉仕されていた方に聞きました。司祭不足の状況を思い、悲しい気持ちになりました。

11/4 17:30着 天草キリシタン館
キリシタン墓石群を訪ねようと、鬼の城キリシタン墓碑公園へ車を走らせたところ、駐車場から草が自分の腰辺りまで伸びていて荒れ放題、先に入るには相当な勇気が必要でした。辺りも薄暗くなり始めていたこともあり、引き返して天草キリシタン館へ向かいました。

今回は、この陣中旗の現物展示のために、熊本を訪れたと言っても過言ではありません。本物の陣中旗というだけで特別で、レプリカを見たときと違う感動があるかと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。至って落ち着いた気持ちで、陣中旗を見ていました。

そして目を閉じて、この陣中旗を掲げて、キリシタンたちが信仰のために戦ったことを、思い巡らしました。私たちも、この守るべき信心を表す天草四郎の陣中旗を掲げ、祈りを武器として信仰のために戦うことになるのだと思いました。

その後、丁寧に布を縫い合わせてある箇所や、旗が損傷している箇所などを見つけると、前回訪問時には、全くそういう箇所に気付かなかったなと思いました。
しばらくして目に留まったのは、御聖体の上部のあたりの損傷の激しさでした。
その損傷は、私たち人間が、御聖体を傷つけていることを表しているように思え、それが天の意向だと信じると心が締め付けられる思いがしました。
それとともに、ますます、御聖体への信心を堅固にしなければならないと、胸に刻みました。

時間の許す限りロザリオをその場で祈り、宿泊先へ向かいました。

(2017年3月12日)






(ヴィジターからの寄稿)

熊本巡礼記2
お待ちどう様でした。巡礼記2です。
小倉の殉教者の娘と、細川ガラシャを介錯して自害した男の息子、その娘と息子が一緒になる。
その夫婦が子供たちと奉公人たちと共に栄(は)えある殉教を遂げる。
日本の大地を鮮血で浄めた人々、神の計らい、一時の信仰の大きなうねり!


熊本巡礼記2
2日目。

祇園橋

11/5 7:15 祇園橋

祇園橋は、キリシタン軍と唐津藩の激しい戦闘があったと伝わる、本渡市街の町山口川にかかっている石橋です。朝早いせいもあってか、薄暗く寒々しい場所に感じました。

デウスへの忠義」を胸に、実際に武器をもって戦うということは、どれだけ勇気が必要だったかを思い巡らすと、剛毅という言葉が浮かびます。

この場所で犠牲となったキリシタン軍の方々にご保護を願い、しばらくロザリオを祈りながらその周辺を歩きました。

千人塚

11/5 8:15 富岡吉利支丹供養碑

討ち死にしたキリシタン一揆軍の首を3分割して葬られたうちの1カ所である、富岡吉利支丹供養碑(千人塚)へ向かいました。

前回、福者アダム荒川の記念広場を訪れた際に、気付かず通り過ぎてしまった場所でした。今回も道に迷いながら何とか到着して、千人塚の前に立ちました。

初めてきたのにもかかわらず、なぜか懐かしく思い、以前ここに来たことがある気がしました。

残念ながら、ロザリオ一連を祈る時間しかなくなってしまいました。この富岡の地へは、再度ゆっくり訪れなければならないと思いました。

thumbnail_サンタマリア館

11/5 9:15 サンタマリア館

この日は大変天気がよく、サンタマリア館の横にある、マリア様のご像の背後には、青い空と海がきれいに広がっていました。

「サンタマリア館」の名称は、天草のキリシタンが特にマリア信仰が強かったことより、それに因んでつけた名称だということでした。仏陀の背中にマリア像があったり、厨子の内側に聖杯があったりと、いかにひそかに信仰を維持してきたのかを表す展示がなされていて、信仰を守り続けることの大変さが感じられました。

その中でも、ひと際目に留まるのはロザリオでした。現在でも使えそうな、状態のよいものもありました。

前回、天草の他の展示施設を訪れた時にも、ロザリオは必ず展示されていました。

天草のキリシタンは、特にマリア信仰が強かったということですから、当然当時ロザリオの祈りが捧げられていたのでしょう。

昔も今も変わらず、ロザリオの祈りが大切だと訴えかけているように思えました。

11/5 12:30 C教会

Aさんのご自宅へ向かい、約4カ月ぶりに再会しました。程なく一緒に、C教会小笠原玄也一家殉教者墓地へ向かいました。

C教会に着くと、昨日と同様大聖堂にはカギが掛かっていたので、司祭館へ御挨拶をしに行き、小聖堂に安置されているご聖櫃の前で、一緒にロザリオ一環をお捧げしました。前回お会いした際は残念ながら一緒に祈る時間がなかったので、ご聖櫃の内にいらっしゃるイエズス様を前に一緒に祈ることができ、非常に喜びを感じました。一緒に祈り終わった後、Aさんはまだ家族のために祈りたいことがあるからと慎んでおっしゃり、お祈りされていました。私はそのAさんの様子に心打たれるものがありました。私に欠けているのは、このような神様に全てをお委ねする謙遜な姿勢だと痛感しました。

11/5 13:20 福者小笠原玄也一家殉教者墓地

C教会を出て、花岡山の中腹にある、福者小笠原玄也一家の御墓へ向かいました。ここには、実際に遺体が埋葬されているそうで、そのような聖なる御墓の前で、ロザリオを一緒に祈りました。

これからの迫害に際し、ご保護を頂けるよう、御取次を願って祈りました。

御墓を前にすると、私たちは、信仰を守る方法を示して下さっている殉教者小笠原玄也一家に倣わなければならないと同時に、弱い私たちのために祈って下さいとお願いしなければならないと思いました。

福者小笠原玄也一家とは

福者小笠原玄也一家とは、江戸時代初期の殉教者「ペトロ岐部と187殉教者」の内の15人(奉公人含む)です。

小笠原玄也は、1619年に 細川忠興の命により斬首されて小倉で殉教した、ディエゴ加賀山隼人である、加賀山みやと結婚しました。また、小笠原玄也の父は、細川忠興の妻である細川ガラシャを介錯して自害した小笠原少斉秀清であり、細川忠興は小倉でその息子である玄也に棄教を勧めましたが、玄也は「不転書物(ころばざるかきもの)」を忠興に送り、棄教を拒絶しました。処刑を免れたものの、全てを失い、人里離れた家に子供たちと13年間におよぶ貧しい生活を送りました。1632年、細川が熊本に国替になった際は、彼らも伴われていきました。1636年、密告者が玄也とその家族を長崎奉行に訴え出たので、牢に幽閉されることになり、1636年1月30日、花岡山の麓にある禅定院において、玄也、みや、それに子供9人と奉公人4人が殉教を遂げました。そして、この15人の遺体は花岡山の現在の墓に隠し葬られたとのことです。

世を去る前、彼らが親戚と友人に送った遺書が現存しており、特にみやは「女性でありながら、このような殉教の誉れを受けることができるのは、何とありがたいことでしょう。どうしても私はこの信仰を捨てられませんのでこのようになりました。」と書いています。

この出来事は江戸時代初期のことですが、今後の更なる苦難の時に起こりうることに対して、私たちに具体的な模範を示して下さっていると思います。

一つ目は、小笠原玄也は職を失って生活が困難になってでも、信仰を守ることを選んだことであり、二つ目は、貧しく苦しい生活の中にあっても、奉公人を含む家族が殉教するほどの厚い信仰を、玄也・みや夫妻が育んだことです。

恵まれた状況にあっても、家族で信仰を育むこと、また自分とかかわりのある人に教えを広めることがいかに難しいことかを考えると、福者小笠原玄也一家の信仰の強さがより感じられました。

福者小笠原玄也一家を模範として、苦難を甘んじ受け、殉教を選ぶほどの覚悟を持った堅固な信仰を持つことができるよう、祈りのうちに努めなければならないと思いました。

11/5 13:50 花岡山山頂

しばらく祈ってから花岡山の山頂へ行き、熊本市街が一望できる場所を話しながら歩いていると、急に胃が痛くなってきました。

この日は初土でしたが、朝ミサに与れる教会が見つからず、御ミサに与っていませんでした。Aさんと一緒に聖体訪問をしたし、これからご飯だから今日は夜ミサへ行くのも止めておこうと、その時まで考えていました。しかし、ご飯も食べられそうにないほど、胃が痛くなってきました。

その時ふと、これはご飯を食べずに(普段聖体拝領前に最低3時間断食をしている)ミサに与るよう導かれているのではないか、という考えが浮かびました。それでAさん宅へ戻る途中、夜ミサに与りませんかと提案し、Aさんが快諾して下さると、痛みが治まったのです。不思議な出来事でした。

それからAさん宅でお話しをしながら昼食を頂き、早めにB教会へ移動しました。お聖堂に入る時まで、教会の外でしばらく信仰の話をしていました。

11/5 19:00 B教会 ミサ

B教会では素晴らしいことに、ベールを被っている女性が多く、聖体拝領時にパテナを使っていました。私は、横浜教区のある教会でしか、小教区でパテナを見たことがなかったので、御聖体への信心を感じ、感動しました。

神父様の表情が優しく感じられました。

また、ミサ後には、聖母へ御取次を願って、皆で祈りを唱えていたのもうれしい驚きでした。

この教会の素晴らしさを感じるとともに、当たり前に唱えられていたはずの祈りが省かれている、所属教区の闇を感じざるを得ませんでした。

しかし、この御ミサに与るよう導かれたことは、神様からの大変な御恵みであることを感じました。喜びとともに感謝しながら祈り、Aさんと別れました。

(2017年3月25日)




熊本巡礼記3

イマクラータの死について、ミッションを信じている人々は様々に考えています。人間に理解できない以上、その分、人間は自由に考えを飛翔させることができます。しかし、全てが明らかになる日は必ず来るでしょう。


熊本巡礼記3
3日目

11/6 11:00 B教会 ミサ

早めにお聖堂に入り、ロザリオなどを祈っていました。

しばらくして、後ろに座った女性が「こんなことをしたって、どうせ何にもならないんだよ!」と私に聞こえるように言いました。その後も「もう帰ろうかな」など、落ち着きのないことを小声で言い続けていたので、精神的な病なのかもしれません。私は悪霊かもしれないとの考えがよぎって、振り返る勇気もなく、そのまま前を向き、ロザリオを祈っていました。後ろの方をどうかお助け下さいと祈っていました。それからしばらくして静かになったのですが、その人がそのままいたのか、いなくなったのかは分かりません。

司式は昨夜の神父様と違う神父様で、聖福音について昨夜とは異なった説教を聞くことができたことは、良かったと思いました。

御ミサ後は一般的な観光を少しした後、Aさんの御好意により空港まで送っていただきました。

搭乗するまで、話が途切れることなく、そして、まだ話し足りないくらいでした。

Aさんと私は住まいは遠く離れているけれど、ロザリオの十字軍という祈りのグループです。一緒に祈ることの意義とそれに対するお恵みを、大きく感じる巡礼となりました。私に欠けている特性や観点をお持ちであるAさんと結び付けて下さったことは、神様の御考えだと思っています。

最後に。ー熊本巡礼を通してー

今回の巡礼を通して、「自分の務め」について考える良い機会となりました。

そのきっかけは、Aさんとの話の中で、イマクラータさんがなぜ亡くなってしまったのか、しかし、亡くなったからといって、このミッションがなくなってしまうことがあっては絶対にいけない、という話題になったことです。

イマクラータさんは、日本での天のミッションを行う特別な方であり、まさか亡くなるとは全く思いもしなかった事でした。

私はイマクラータさんが亡くなって大きな支えが無くなったことから、1週間泣いて過ごしました。しかし、その後亡くなった理由の1つとして、私なりに納得したことがあります。それは、レムナントアーミーとして、一人ひとり信仰を堅固にすることを天は望まれているということです。私は、イマクラータさんがいらっしゃることにより、漠然と、何があっても救われるだろうと楽観的に考えていました。イマクラータさんに頼り切っており、強い信仰を持って自分の足では立てていないと亡くなった時に気付いたのです。

自分と家族だけでなく、一人でも多くの人の救霊のため、私たちは神様の御旨に沿って働かねばなりません。そのために準備すべきことを、Aさんとの話で具体的に気付かせて下さいました。

霊的準備としては、ロザリオを祈るなど、祈りの時間を持つことや御聖体に対する信心を燃え立たせることだけでなく、レムナントアーミーとして自覚を持つことも重要になると思います。そして、告解の秘跡により、聖寵の状態を保つことです。

物質的準備としては、聖母のメッセージとして、食料、毛布、水、生活の必需品を保存しておくよう仰っています。それに加えて、今後の迫害に対する備えをすることも、大切だと思います。具体的には、聖なる司祭をかくまうこと等の避難所としての準備です。それは、レムナントアーミーとして自覚を持つことにもつながるでしょう。

しかし、家庭の大黒柱であったり、主婦であったり、独身であったり、それぞれ今おかれた立場があります。自分の務めとして、それぞれの立場でできることを果たしていくことにより、ロザリオの十字軍としての役割を担っていくのだと思っています。

(2017年4月24日)



LEFT:■秋田巡礼記 3
「御聖体に対する信心と聖母への信心」
聖母のメッセージを信じている信徒が跪いて聖体拝領をしようとする、これは二つの信心に生きる証左です。仮に立って拝領することを強いられたとしても、嵐を二つの信心で乗り切ろうとしていることに変わりはないのです。

秋田巡礼記 3

最後に。-巡礼を通して-

秋田への巡礼を終えて感じたことは、聖母が私たちに教えてくださっていることは、常に変わらないということです。

わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。」

その本質とは、聖母への信心と、御聖体の秘跡への信心のことです。

「おん子の残された印」について、御聖体を「しるし」と呼ぶのは適当ではないのではないか、と考えたこともありました。

しかし、このことについて、安田神父様は「聖母マリア像の涙」の中で、明確に御聖体のことだと書かれています。

また、聖ドン・ボスコの「二つの柱の夢」でも示されています。「二つの柱の夢」とは、未来の教皇が、教会の危機にあたって、その大嵐をこの二つの信心によって切り抜けることができるという予言的な夢(「天草四郎時貞、真実の預言者」より)のことです。

今後の更なる困難を前に、私たちはこの二つの信心を堅固なるものにしておく必要があります。ことが起こってから信心を強くするのでは、間に合わないからです。

特に、御聖体に対する崇敬の姿勢を示すことに対しては、堅固なる信心を持っていたとしても、簡単に挫けそうになる程の迫害を受けるでしょう。現在既に、その兆候があります。

聖母にお助け頂かなければ、私は、自分の弱い気持ちを強くすることはできません。御聖体に対する信心を強く持ち続けることができるよう、ロザリオを祈ることにより、聖母にご保護を願うことの重要さを感じます。

このことから、御聖体に対する信心と聖母への信心は、密接に結びついているように思います。

最後に、以前イマクラータさんがお書きになった文章を引用し、結びとしたいと思います。

メッセージによれば、最後はミサもなくなります。公教会祈祷文には、ミサにあずかれない時の祈りがありますからそれを祈り、霊的聖体拝領をするという時代が来るのです。悲観的にならず、気を強く持ち、イエズス様とマリア様により頼み、ロザリオで最後まで頑張りましょう。

(2016年12月4日)





■秋田巡礼記 2
日本の巡礼者よりも外国からの巡礼者の方が多いといいます。世界のどの巡礼地もそうなのでしょうか。ファティマ、ルルドなど。聖書のある場面が思い浮かびました。イエズス様が悪魔を豚の群れの中に追いやり、その豚の群れが崖から海に落ちて溺れ死にます。それを知った町の人々はイエズス様のもとに来て言います―「この地方から出ていってください

秋田巡礼記 2

聖体奉仕会

聖体奉仕会 6:35到着 7:00ミサ 
秋田駅周辺の宿泊先より、タクシーにて現地へ向かいました。
聖体奉仕会のお聖堂は、非常に新鮮に感じる、純和風の建物です。

入口より中へ入ると、広い玄関になっています。すぐ左側に小さい売店がありますが、朝早いため閉まっていました。靴を脱いで上がると、回廊を挟んだ正面に、障子や襖で仕切られてある場所があります。この障子をあけると、お聖堂でした。
聖水で十字を切り、お聖堂に入ると、すぐマリア様のご像を探しましたが、見当たりません。
お聖堂の正面に向かって左側の、お聖堂の外側の回廊に、聖母がちらっと見えました。
てっきり聖堂内に安置してあると思っていたので、なぜ?と納得できない気持ちになりましたが、そちらへ拝見しに行きました。写真でよく見る、あの秋田の聖母のご像でした。

ごミサのためにすぐお聖堂へ戻ると、ご聖体が顕示されていました。跪いてお祈りしているシスターが1人、いらっしゃいました。
アドレムス(ラテン語の歌。トリエントミサのベネディクションで歌っているので、知っていた)を歌って聖体顕示を終え、ごミサとなりました。

入祭の歌は聖体賛歌という、心が天へ向かうようなラテン語の歌で、感動して涙が出ました。
神父様は奉納祈願の箇所も省くことなく唱えられていました。
ミサ曲は、ほとんどがカトリック聖歌集からでした。小教区では、このようなごミサに与ったことがなく、神様にお捧げする素晴らしいごミサに与ることができ、感謝しました。
最後に、イエズスの聖心の連祷を唱え、終わりました。
少し残念だったのは、ロザリオの聖母の日らしいごミサではなかったことです。

ミサ後に声をかけて下さったシスターに、お聖堂に残ってお祈りするお許しを頂きました。
この日は、インターネット祈りのグループ月の祈りにあたっていたので、ロザリオ1環と御憐れみのチャプレット十字軍の月の祈りをゆっくり祈りました。

その後、聖母のご像をしばらく眺め、このご像から御声が聞かれたのだ、涙が流れたのだ、などと思い巡らしていました。
秋田の聖母に対して、最も印象深く感じたのは、毅然とした、「操正しき御母」という御姿でした。

thumbnail_十字架の道行

一度外へ出て、聖母へささげる日本庭園として作られた、マリア庭園へ向かいました。ゆっくり歩いて眺めた後、小羊の苑という、十字架の道行のある庭に行きました。
イエズス様のご苦難を思い起こし、心に深く刻むために、大切な祈りだと感じながら、一人十字架の道行の祈りをしました。

その後建物へ戻ると、売店が開いていました。
シスターにお話を伺うと、外国人の巡礼は非常に多い半面、日本人の巡礼が少なく、嘆いていらっしゃいました。
聖体奉仕会の祈りのカードの一部は、英語の商品はあっても、日本語の商品は作っていないものがあった(シスターに確認済)ことにも、それがよく表れていました。

マリア庭園聖母像

聖体奉仕会のパンフレットには、ご像の涙の奇跡については記載されているものの、それ以外の肝心なメッセージや、シスター笹川に起こった奇跡等については、一言もないのです。日本では、実際に起きた奇跡が、シスター笹川の超能力によるものとされる等、タブーとされ、真実を知りにくい環境にありますから、日本人の巡礼が少ないのもうなずけます。

私たちは、日本を愛して下さり、お恵みを下さった聖母に感謝し、聖母のお示し通り、ロザリオを祈り、おん子の残された印、つまり御聖体を敬い、拝領することが大切だと、聖体奉仕会を訪れて感じました。

刑罰場跡

草生津河原(くそうづかわら)刑罰場跡 13:15到着
草生津河原刑罰場は秋田をおさめた久保田藩の刑罰場で、1624年から大量処刑が行われるようになり、その頃から信者たちが、ここで火焙り斬首に処されたと言われています。

現在はその場所に、特別慰霊碑等何もありませんが、これからの困難の時代には殉教者の方々の信仰に倣う必要があると考え、この土地を訪れました。

殉教者に御取次を願い、しばらく祈っていると、年配の男性に話しかけられました。
その男性によると、今年は、ここに初めて白い彼岸花が咲いたと話題になった、とのことでした。

秋田の地に聖母からの恩恵があるのは、先立って、こちらの殉教者方の犠牲があったからではないかと考えています。
ここに白い彼岸花が咲いたことが、殉教者の清い霊魂の象徴のように思えました。

殉教碑

カトリック秋田教会 15:00到着
先刻訪れた場所、草生津河原刑罰場に関連する、秋田キリシタン殉教碑があるため、訪れました。

建物の左側には、ルルドのマリア様のご像がありました。
聖堂内に入ると、ご聖櫃は真ん中にあり、左側に聖ヨゼフ像、右側に聖マリア像がありました。

こちらのマリア様は、穏やかでやさしい表情をしていらっしゃるように感じました。

秋田教会ルルドの聖母

マリア様のご像近くに跪いて、ロザリオを祈り、帰途につきました。

(2016年11月28日)





■秋田巡礼記 1
秋田の聖母のメッセージ、もう一度読み返す機会になりました。

聖体奉仕会

秋田巡礼記 1
(M.D)
秋田へ巡礼に行ったきっかけは、安田神父様の書かれた著作「聖母マリア像の涙」を読んだことです。

1973年当時、全聾の障害を持ったシスター笹川は、掌に十字架の聖痕が現れる等の現象が起こった後、聖母のメッセージを3回受けられました。更に聖母のご像は101回涙を流される等、様々な奇跡が起こったということです。

前にも伝えたように、もし人類が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう

その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。

毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください

悪魔の働きが教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう

特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしは無くなるでしょう。

ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。私に寄りすがる者は、助けられるでしょう

(秋田の第3のメッセージより)

このメッセージは1973年のものですが、現在も色あせることなく、いいえ、現在だからこそ、心に染みいってくるものがあります。

実際に、日本をはじめ世界では、災害の起きる間隔が狭く、頻繁になってきました。それだけおん父に対し、罪を重ねてきた結果、その罪に対する罰を下されているということだと思います。

それと同時に、災害等苦難を通して、回心する機会を与えて下さっています。

今私たちにできることは、聖母のお示しに従い、ロザリオを祈り、おん子の残された印、つまり御聖体を敬い、拝領することです。毎日、忠実に実行していく努力をすることが、霊魂の救いのため、今一番大切なことだと思います。

(2016年11月15日)







■巡礼記 6 (最終回)
ベールは被るが、聖体は手で拝領する。真に聖体を敬っている場合、立ったまま手のひらの上の聖体をつまんで口に運ぶ姿と、跪いて舌で拝領する姿と、どちらが相応しいかは、アプリオリ(先験的)な直観として信徒には分かるはずです。聖体がキリストの現存そのものであると、知識で認識してはいても、私たちの信仰心は脆弱(ぜいじゃく)なのです。身体と心で敬ってこそ、聖体への信仰は強められる。そのことを敵は百も承知です。島原の乱の陣中旗が、今、翻る所以です。天草四郎時貞、われらのために祈り給え。


巡礼記 6

thumbnail_崎津天主堂

8/20 6:00到着 6:30ミサ 崎津教会:イエズスのみ心
最終日のごミサに与る教会として選んだのは、崎津教会
崎津教会が建てられた土地は、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡であり、この禁教時代に厳しい絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたと言われています。
思い巡らせると胸が苦しくなるような、大変な苦難の場所です。
少し早目に着いて写真を撮っていると、シスターに話しかけられました。昨日大江教会でお話しした方でした。
参列している方10人ほどで、割合としては女性のほうが多かったです。
堂内は畳敷きですが、パイプ椅子がならんでいました。
畳は跪きやすいことに驚きました。なんとなく、痛そうだと思っていたのです。

非常に素敵な祭壇で、主祭壇の上部にイエズス様のご像があります。
左脇にはヨゼフ様、右脇にはマリア様のご像があります。

崎津ルルド

この日は聖ベルナルドの日で、お説教は聖ベルナルドについてお話ししてくださいました。
古い祈祷書に載っている「慈悲深き童貞聖マリア」で始まるお祈りを作った方だ、というところで私はやっと気付きました。
毎日祈っている祈りを作った方だと。
聖ベルナルドは、トラピストで知られる厳律シトー修道会の修道院長をされ、特に聖母への信心が強かった方であり、我々も聖母への信心を大切にしましょう、という内容のお話をなさいました。
今まで以上に、心を天に向けることができる素晴らしい教会のごミサに、聖ベルナルドの日に与ることができ、心からイエズス様に感謝し、聖母の御取次に感謝をしました。
残念なことに、天草でも舌で聖体拝領をする方がいらっしゃいませんでした。
この後は、帰りの飛行機に間に合うよう、すぐに熊本空港へ向かいました。

8/20 10:10到着 熊本空港
管理人様のご紹介により、ロザリオの十字軍の一員であるAさんとお会いする予定となっていました。このお話があった際、聖母のお導きを強く感じ、面会場所として熊本空港を使うことに決めました。
最短時間とされたナビのルートを通って、熊本空港へ向かいました。
高速を通るルートが速いと計算されていたので、Aさんが教えて下さった道とは違うなと思いながらも、高速にのりました。
すると、途中全く動かない渋滞につかまりました。震災による道路工事のための渋滞でした。
到着予想時間が、見る見るうちに遅くなっていきます。
焦りました。事前に震災による道路状態を考慮するよう、Aさんからアドバイスを受けていたものの、実際は余り気に留めていなかったのです。
ここからは、Aさんとお会いすることが神様の御旨であるならば、間に合わせて下さるだろう、と信じて運転しました。
そして、無事30分ほどお会いして、お話しすることができました。
30分では足りないくらい、お話ししました。
初対面ですのに話が途切れなかったのは、単にカトリック信者だからというだけではなく、ロザリオの十字軍の一員であるという、互いに同じ方向を向いているからなのでしょう。
できればロザリオを一緒に祈りたかったのですが、それは次回、必ずB教会を訪れ、実現させようと考えました。
もし近くにお住まいであれば、お互いに励まし合いながら、祈りのグループとなっていたのではないかと思いました。
このように近い未来、私たちは様々な方法により導かれ、祈りのグループとして繋がっていくのだと思います。
Aさんとお会いでき、非常に力を頂きました。
搭乗口でお別れし、飛行機で帰途につきました。

最後に。-巡礼を通して-

長崎、天草への巡礼を終えて、感じたことを振り返ってみました。

素晴らしいと思ったこととしては、
聖母のご像を飾っている教会が多いこと。
伝統的な祭壇のある教会へ、足を運びやすいこと。
女性が、ベールを当たり前に被っていること。
ミサの奉納祈願の箇所で、下記会衆部分を、訪れた教会では祈っていたこと。(東京教区では、一部修道会系の教会以外は省かれており、司祭が即「祈りましょう」と続けます)
司祭:みなさん、このささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう
会衆:神の栄光と賛美のため、また全教会とわたしたち自身のために、司祭の手を通しておささげするいけにえをお受けください。
この祈りは大切であり、特に「いけにえ」という言葉は、ごミサの重要な部分であることを再確認しました。
 
闇の部分としては、
教会という祈りの場が、観光の場と化していること。
執念深く世界遺産登録にこだわっているので、これは更に加速すると思われます。
手で聖体拝領をさせることが完了していること。
長崎、天草なら舌で拝領する方が、何人かはいらっしゃるだろうと、私は巡礼前には楽観的に考えていました。
しかし所属教会でもそうですが、熱心に教会へ奉仕している方は特に、司祭が教えることに忠実に従っています。
ですから、週日のごミサに与る方々の中に、舌での聖体拝領が見られなかったのは、今となってはうなずけます。

日本では信者の多い長崎・天草でも、闇の部分に直面し、時が短くなってきていることを感じました。
今後は、これまで以上に御聖体に対する信心聖母への信心を強くし、守っていく勇気が重要だと思いました。
そのためには、殉教者に倣うこと、特に日本の殉教者に倣い、日本のためにお祈りくださるように祈ることが必要であり、今まで殉教者への祈りが欠けていたことを感じました。
天草四郎陣中旗こそ、私たちの守るべき信心を表しています。
あのように、御聖体御血に対する崇敬の姿勢を持つよう、私たちに示していると思えてなりません。

(2016年9月17日)




訂正「巡礼記 5」で、「8/19 17:00 天草キリシタン館」の箇所で文章の欠落がありました、訂正してお詫びいたします。その箇所を再読していただければと願っております。


■巡礼記 5   「私は土や木で造った教会や、将軍様の命令一つで追放される司祭だけを頼りにはしていません。天地万物をお創りになったデウスさまが私の力になり最後まで私の精神を強めてくださると、私は信じ安心しております」(カトリック大分教会「アダム荒川の殉教」より)これは70歳で殉教したアダム荒川の言葉です。これからカトリック教会が磔刑に処せられる中、いかに信徒が、教会消滅、司祭不在の中で生きてゆくかの、その心構えに通じます。福者アダム荒川、われらのために祈り給え


巡礼記 5

福者アダム荒川

8/19 13:30 福者アダム荒川の記念広場 
口之津港よりフェリーに乗り、対岸の天草へ渡りました。
そして、天草ロザリオ館大江天主堂へ向かう途中に、富岡という標識が見え、寄り道をしました。

天草四郎の一揆勢が攻め落とせなかった、富岡城があった場所であり、キリシタンの処刑が行われた殉教の地です。

時間がなかったため、富岡城跡の横にある、福者アダム荒川ペトロ岐部と187殉教者の内の一人:教皇ベネディクト16世により福者となる)の記念広場に少しだけ立ち寄りました。

天草ロザリオ館

8/19 14:30 天草ロザリオ館 
こちらには「天使の像」という題名のメダイが展示されており、これを見に訪れました。
天草四郎時貞陣中旗とよく似た図柄のものです。
そして、そのメダイがあれば購入して帰るつもりでさえいたのですが、現在出回っているものではありませんでした。
メダイを目にすると、何やら胸が熱くなるように感じました。
そして、早く陣中旗を見たくなりました。

8/19 15:00 大江天主堂:お告げのマリア
大江は、島原・天草一揆で全滅したと思われていたキリシタンが、160年余りを経て数多く発見された隠れキリシタンの里と言われています。
こちらの教会は長崎の教会と違い、立入禁止エリア以外に座れる場所がありました。

大江天主堂

また、長崎の観光優先的な雰囲気とも異なるように感じ、パンフレットには、「祈りの家 ここはわたしたちが神と出会い、神と語らう祈りの家、神聖な場所です。」と書かれてありました。
座ってから、しばらく祭壇を拝見していました。
主祭壇の左脇には聖パウロ三木聖ルドビコ茨木日本二十六聖人の内の2人)、右脇に聖フランシスコ・ザビエルのご像がありました。

主祭壇上にはお告げのマリア様の聖画があり、また、左脇祭壇にはイエズス様を抱いた聖ヨゼフのご像、右脇祭壇には聖母のご像があります。
穏やかに自然と祈りたい気持ちになり、御憐れみのチャプレットなどを祈りました。

大江天主堂ルルド

いらっしゃったシスターは、とても感じのいい方でした。
お告げのマリア様の素晴らしい聖堂で祈れることが素直にうれしく、心が洗われるようでした。

8/19 15:45 天草コレジヨ館 
時間が押してきてしまい、コレジヨ館に立ち寄るかどうか迷っていました。
こちらでも、ロザリオ館で展示されていたものと同様の図柄のメダイが展示されているため、
あきらめ悪く、レプリカが購入できないかを見に行くことにしました。
結局ありませんでした。
ホスチアカリスのメダイを見ると、改めて胸が熱くなりました。
非常に神聖なものだと感じました。

8/19 17:00 天草キリシタン館 
見るのを心待ちにしてきた、陣中旗が展示されています。
JMJコニュニティーのサイトでも紹介されていますが、天草四郎時貞の陣中旗には、中央にカリス、 その上に十字架がついたホスチア、その両側に合掌礼拝する天使が描かれています。
また、古ポルトガル語で次の祈りが書かれています。

いとも貴き御聖体の秘跡ほめ尊まれさせ給え。

この陣中旗の写真を目にしてから、実際に見に行かなければ、と強く思い続けてきました。
私たちは、今、まさに御聖体に対する信心が必要とされているからです。
レプリカではありましたが、心に響いてくるものがありました。

天草四郎をはじめとする一揆軍が、何のために戦い殉教したのかを明確に表していると感じました。

ロザリオの十字軍の陣中旗でもあると思いました。

殉教戦千人塚

8/19 17:35 殉教戦千人塚
本渡城跡に作られた殉教公園内には、天草キリシタン館と、この殉教戦千人塚もあります。
本渡での両軍の戦死者を、島内各地に祀ってあったものをまとめて祀ったものだそうです。
この千人塚には、名前も知られていない殉教者が沢山いらっしゃるのでしょう。
私は、この方々に倣って、勇気をもって戦わなければならない時が迫っていることを感じました。

こちらでも、殉教により日本を護って下さったことに感謝し、これからもお護り下さりますように取り次ぎを願いました。
日が暮れてきたので、宿泊先へ向かいました。

(2016年9月12日)









■巡礼記 4   「聖堂で祈れない」  大天使聖ミカエル、われらのために祈り給え。

巡礼記 4

馬込教会

8/19 6:30ミサ 馬込教会:大天使聖ミカエル
伊王島へ向かう道に迷いながら、ギリギリに到着しました。
イエズス様が海に向かっていらっしゃり、まるで天へ向かっているように建っている、天主堂が見えました。
胸が高鳴るままに、急いで聖堂へ入りました。
荘厳な祭壇の中央にはのご聖櫃があり、上には大天使聖ミカエルのご像があります。
また、左脇祭壇にはイエズス様のみ心のご像、右脇祭壇にはマリア様のご像があります。
非常に心安らぎます。
聖体拝領の際に跪くと、神父様は躊躇(ためら)われたのか、しばらくそのままの状態になりました。
それでも、跪いて御聖体を頂くことができ、聖母に感謝しました。
ごミサ後日本の守護の天使に捧げられた、この教会で祈っていきたいと考え、残って祈ってもよろしいでしょうかと神父様にお聞きしたところ、閉めるから無理だと仰いました。
残念ながら、またもや聖堂で祈れないという状況になってしまいました。
今となっては、馬込教会は観光客が多いために、あえて施錠して管理しているのだろうと考えられますが、その時はやりきれない気持ちがこみ上げてきました。
そして、島原半島方面へ早めに向かうことにしました。

8/19 10:50 有馬キリシタン遺産記念館
こちらでは、南島原におけるキリスト教の繁栄から島原・天草一揆までの歴史が紹介されています。
案内係の方とお話をしたのですが、島原の乱ではキリシタンが皆殺しにされて一人も残らなかったため、現在特に信者が多いことはないとのことでした。
それだけ厳しい弾圧だったということでしょう。
キリシタン大名として有名な有馬晴信は、こちらの映像や資料などで「南蛮貿易の利益を考えて洗礼を受けた」とされていました。初めはそうだったのかもしれませんが、後には本当に信仰をもっていたと私は思います。
それは岡本大八事件という、罠にはめられたと思われる事件に絡み、晴信は幕府より切腹を申し渡されるもキリシタンであるため自害はせず、家臣に首を刎ねさせ、生涯を終えたこと等から感じられました。

原城跡 天草四郎像

8/19 11:50 原城跡
島原・天草一揆で最後の舞台となった原城跡。
天草四郎時貞は総大将としてキリシタンである一揆軍を率いて、最終的に原城に立てこもるのですが、幕府軍との激しい攻防の末ついに陥落し、女性や子どもまでもが皆殺しにされました。
JMJコニュニティーのサイトを見て天草へ行くのを決めてから、イマクラータさんの本を読みました。その本の中に「天草四郎時貞と3万7千人の原城での犠牲は、その後の日本を守るために捧げられた」というようなことが書いてあったた
め、この尊い場所を訪問することとしました。

徹底的に壊されたといわれるように、石垣や地形などしか残っていない印象でし
た。

原城跡 天草四郎墓碑

まさか、この場所で壮絶な戦いが行われたとは思えないくらい、静かで海が見える景色のよい場所でした。
天草四郎時貞のお墓の前で、日本を守ってくださっていることへの感謝と日本の教会が護られますようにと願い、ロザリオを祈りました。

(2016年9月6日)








■巡礼記 3  「近頃は日曜日のごミサでも会員以外ほとんど人が来ないのだそうです」聖コルベ、われらのために祈り給え。


巡礼記 3

本河内教会の聖母

8/18 13:45 本河内教会:無原罪の聖母
レンタカーを借り、今回巡礼地として1番に決定した場所である聖コルベ神父様の聖母の騎士へ向かいました。
ここのところ聖コルベ神父様に関する本を読んでおり、日本に聖母への信心の大切さを広めて下さった場所を訪れたいと考えておりました。
よく切り開いたなというレベルの急坂の場所にあります。
聖堂に入ると、これこそ祈りの場、という静けさが待っていました。
やっと落ち着いて祈れると思い、うれしくなりました。
聖母を非常に崇敬しているこの場所では、ロザリオ1環祈ろうと決めていました。

本河内ルルド (1)

祭壇は伝統的なものではありませんが、一面が銀色で所々金色に輝く素敵なご聖櫃があり、十字架のイエズス様と両手を広げた聖母が中央にいらっしゃいます。
折りたたみの跪き台があったこともあって長居をし、多くのお恵みを感じました。
聖堂を出て受付へ立ち寄ると、コンベンツアル聖フランシスコ会の神父様がいらっしゃいました。
悲しいことに、近頃は日曜日のごミサでも会員以外ほとんど人が来ないのだそうです。
私はこちらには以前来たことがあること、今回受洗して訪れたのと以前とでは感じ方が全く違うことなど、神父様とついつい話し込んでしまいました。
神父様はとてもやさしく、いろいろなお話をしてくださいました。心から訪れてよかったと思いました。

ルルド免償

受付を出て資料館へ行く途中に聖コルベ神父様のご像があります。
聖コルベ神父様は怖い顔をしていて、私は睨まれているような気がしました。(実際はそうではないと思います)
まだまだ、愛が足りないと仰っているようでした。その日宿泊先に戻ってから、これは聖母への信心が足りないということだと思いました。

資料館へ入ってのち、本河内ルルドへ。
教皇ヨハネ・パウロ2世も訪れた地であり、全免償の特典があります。
ルルドへの道の途中にロザリオの玄義のレリーフがあり、こちらでロザリオを祈ればよかったと若干後悔しましたが、そもそも聖堂で祈りたかったのだからこれでよかったのだと思い直し、進みました。
ルルドのマリア様に強い日差しが注がれていました。
お祈りをしてからルルドの水を頂くととても美味しく、不思議と力が湧いてきました。
受付で頂いたペットボトルにお水を注ぎ、持ち帰りました。

大浦天主堂の聖母

8/18 16:30 大浦天主堂:日本二十六聖人殉教者
大浦天主堂への登り坂の途中にある、聖コルベ館ゆかりの暖炉へ立ち寄ってから、大浦天主堂へ向かいました。
日本最古の教会堂であり、潜伏キリシタンが発見された場所であることはあまりにも有名です。
大浦天主堂でごミサに与れたら、どんなに素晴らしいでしょう。現在は年に数回しかごミサがないそうです。
国宝ですし、状態を保存し開放することで一般の方に教会やカトリックを知ってもらうきっかけになっているでしょうし、そういう意味で大変な役割を担っているのでしょう。しかしこのような荘厳な教会こそ、祈りの場であるべきだと思わずにはいられないのです。
長崎では大浦天主堂に限らず、祈りの場が観光という名で壊されている現実にショックを受けました。
私の聖母の被昇天へのノヴェナの意向は「日本の教会が護られますように」だったのですが、嫌な形でつながったように思えました。
そう気づくことによる落胆は非常に大きく、振り返っている現在(いま)になって敷地内の旧羅典神学校へ行き忘れていたことに気付きました。


8/18 18:30 出島
空が薄暗くなってきましたが、宿泊先より徒歩で出島に向かいました。
出島前の広場において、天草四郎をはじめ4名の首が晒されたと、イマクラータさんの書かれた本により知りました。
現在はその広場はありませんが、当時広場だったと思われる場所を眺めてから、しばらく目を閉じました。
首を晒すということは、命を奪った後にも更に侮辱を加えるもので、敵の執念深さを感じます。
いけにえとなって下さった天草四郎たちに思いを馳せ、十字を切りました。

(2016年9月3日)






■巡礼記 2。十四歳の少年トマス小崎の、母に宛てた遺書。司祭かと、思わず錯覚するようなこの手紙、涙なくしては読めません。聖トマス小崎、われらのために祈り給え。



巡礼記 2

楠原教会

8/18 5:25到着 5:45ミサ 楠原教会(福江島):聖家族
こちらの場所も迫害が起きた地であり、伝統的な美しい教会であるとのことでごミサに与りました。
水ノ浦教会から車で10分足らずの場所ですので、昨日のシスター方がいらっしゃいました。
それに加え年配男性の参列も多く、時間が時間なのに高校生くらいの学生が朗読をされていたのが印象的でした。
目を奪われるのは、両脇で天使が崇拝している素敵な主祭壇です。
左脇にはイエズス様のみ心のご像、右脇にはマリア様のご像があります。
神父様は水ノ浦教会と同じ方です。
平日の朝のごミサでも説教があります。素晴らしいです。(私の所属教会や周辺の教会では週日のごミサで説教がありません)
昨日と同様皆さん手での聖体拝領に、心が重くなりました。
それでも素敵な主祭壇のおかげで昨日以上に心をこめて、ごミサに与ることができました。
沸き起こってくる崇拝する気持ちが普段と全く違うのです。
いかに祭壇の形が大事かということです。荘厳ですと心も変わるのです。
こちらも折りたたみの跪き台がありました。

西坂の丘

8/18 10:00すぎ 西坂殉教地
あっという間に福江島を去り、ジェットフォイル(長崎に向かう船)にて長崎入りしました。
今回のメインとも言える、西坂殉教地へ向かいました。

二十六聖人記念碑

急な坂を上った丘に二十六聖人記念碑が見えてきます。
不勉強でこの巡礼まで詳しいことを知らなかったのですが、豊臣秀吉時代のキリシタン禁令により殉教したのが日本二十六聖人だということです。
この記念碑の横にある記念塔の場所が本来の場所なのでしょうか。
この地では二十六聖人を皮切りに、多くの方が殉教したと言われています。
二十六聖人を始めこの地で殉教した方々に対し、殉教により日本を守ってくださっていることに感謝し
また今後の困難の中で、私にも殉教する勇気をお与えくださるよう祈りました。

その後、日本二十六聖人記念館へ入りました。
聖人方の殉教の状況やキリシタンの受難の歴史が紹介されています。
この二十六聖人の中には伊勢、尾張の出身の方が多く、もしかしたら私はこの方々と縁があるのかもしれないとふと思いました。
その中で最も目に留まったのは、14歳の若さで殉教した聖トマス小崎でした。
聖ミゲル(ミカエル)小崎は父親で、父子で殉教されました。
聖トマス小崎から母への手紙を読むと、処刑が近づく最中の信仰の強さに心を奪われました。

「神の御助けにより、この手紙をしたためます。パードレ以下われわれ二十四名は、列の先頭を行く制札に書かれた判決文のように、長崎で磔刑を受けるため、ここまでまいりました。私のこと、またミゲル父上のこと、ご心配くださいませんように。パライソですぐお会いしましょう。お待ちしております。たとえパードレがいなくても、臨終には熱心に罪を痛悔し、イエズス・キリストの幾多の御恵みを感謝なされば、救われます。この世ははかないものですからパライソの全き幸福を失わぬよう、努力なさいますように。人からどんなに迷惑をかけられても耐え忍び、すべての人に大いなる愛徳を施されますように。私のふたりの弟マンシオとフェリペを、どうか異教徒の手に渡さぬよう、ご尽力下さい。私は母上のことをわれらの主にお願いいたしましょう。母上から私の知っている人々によろしく申し上げて下さい。罪を痛悔するのを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。なぜなら唯一の重大なことなのですから。アダムは神にそむき、罪を犯しましたが、痛悔とあがないによって救われました。

十二の月二日 安芸の国 三原城にて。」

また、聖パウロ三木西坂の丘で十字架に掛けられても最後まで説教をされていたという、大変な信仰も印象に残りました。
聖人方に倣った勇気が与えられるように祈ると自然と涙が出ました。
二十六聖人の聖遺物が納められている祭壇がある部屋は、他とは異なる荘厳な空間で、跪かずにはいられませんでした。

記念館を出てから、隣にある二十六聖人の1人が保護者である聖フィリッポ・デ・ヘスス教会(西坂教会)に立ち寄りました。
西坂殉教地への急な坂の途中からこの教会の2本の塔が見えておりましたが、お化けのように感じ(違和感のほうが表現がやわらかいですね)正直気が進みませんでした。
直観は当たるものです。
十字架のイエズス様とマリア様のご像が信者席側にあるのに違和感を感じ、二十六聖人の聖遺物のみ拝見し、すぐ出ました。

8/18 11:30 浦上天主堂:無原罪の聖母
係の方のお昼休みと重なったせいなのか、ほとんどの場所に入れませんでした。
聖堂で祈りたいと思って訪れたものの、立入禁止でロープが張ってありました。(帰ってから、ごミサ以外は常時こうなっていると知りました)
聖堂は広く、目が悪いため祭壇も何も全く見えません。
唯一被爆した聖マリア像のみ見られました。

如己堂

そして、パンフレットなどが価格表とともにおいてありました。
維持には必要なことなのでしょうが、ここで聖書のみことばが浮かびました。
私の父の家を商売の家にしてはならない。

祈れない教会ってどうなのだろう・・・とひどくがっかりして、急に疲労を感じました。
足取り重く、潜伏キリシタンの屋敷跡であり被爆の被災者救護に尽力された永井隆博士の病室兼書斎である如己堂へ向かいました。




■関東在住のロザリオの十字軍のメンバーでいらっしゃる、この夏に長崎・天草を巡礼された女性(かた)が、その巡礼記を寄稿してくださいました。聖なる場所が、この方の眼を通して浮かび上がる様が面白く、また意義があるのだと思います。聖ヨハネ五島と言う聖人の名前は知りませんでしたが、今、確かにスポットライトが当てられました。聖ヨハネ五島、われらのために祈り給え


巡礼記 1
(M.D)

今回の巡礼のきっかけ
単純に夏休みをどう過ごそうかということと、8月は救霊の月ということで伝統的な教会のごミサにあずかればよりお恵みをいただけるのではないかということから思いつきました。
伝統的といえば安易に長崎だと考えました。
そして、隠れキリシタンと殉教者の地を中心に巡礼することとしました。
当初は下五島(福江島)と長崎市周辺を考えていましたが、ふとJMJコミュニティーのサイトで天草四郎という文字が目に入り、天草にも足を延ばすことにしました。




堂崎天主堂
堂崎天主堂

8/17 16:10 堂崎天主堂(福江島):日本26聖人
テレビで芸能人が観光しているのを見て以来、こちらへ来たいと思っていました。
二十六聖人の中の一人、聖ヨハネ五島の十字架磔刑の像が印象的で、敷地奥の階段を上がると聖母のご像があります。
聖母がその像や天主堂を上から見守っているような光景です。
聖堂は現在キリシタン資料館となっています。
とにかく祭壇が素晴らしかったです。
左脇祭壇にはイエズス様のご像とみ心の御絵が、右脇祭壇にはマリア様のご像が、
そして主祭壇には、聖ヨハネ五島の聖遺骨がありました。
自然と崇敬する気持ちになり、このような教会でぜひごミサに与りたいと思いました。
展示の中に天草四郎時貞の鉄扇がありました。

第1日曜日のみごミサがあるようですが、聖水が干からびており残念でした。
資料館であるためしょうがない部分があるのでしょうが、聖なるものを前に人々がしゃべっている状態はふさわしくないと感じました。
このような聖堂は神聖さを感じ、訪れて心が満たされました。




画像の説明
水ノ浦教会

8/17 17:10到着17:30ミサ 水ノ浦教会(福江島):被昇天の聖母
迫害が起きた地であることに加え、聖母に捧げられた白く美しい教会であるとのことでごミサにどうしても与りたくて行きました。
堂崎天主堂を訪れた後のせいか、祭壇があっさりしているように感じました。
参列はシスター約15名と一般信者10名くらいでした。
女性は皆さんベールを被っていて、さすが長崎です。

しかし、皆さん御聖体を手で頂いていて、1人も舌でという方はいらっしゃいません。
この五島列島という場所でもこのような状況なのだと、闇の深さを痛感しました。
折りたたみの跪き台がありますが、ベニヤ板のようなすごく痛いものでした(笑)




キリシタン牢屋
キリシタン牢屋

8/16 18:20 楠原の牢屋跡
明日朝ごミサに与る予定の楠原教会の場所を確認した後、キリシタン弾圧で投獄された信徒の牢屋跡へ立ち寄りました。
この建物に33人も投獄されたとなると、明らかにスペースがないです。
それだけでも大変な苦難だったと想像がつきます。
この方たちの信仰に倣うことができるよう祈り、福江の宿泊先へ戻りました。

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