無意識のうちに、あるいは意識はあっても、このように使われてしまうことがあるのです
1995年6月15日
7:00am
聖母:聖父と、聖子と、聖霊との御名によりて。アーメン。
私はあなたを祝福します。
私は、無原罪の聖母、無原罪の御孕り、あなたがたの母、罪人の拠り所、罪人の母、キリスト信者の扶け、聖マリアです。
イマクラータ、私の言葉を聞きなさい。
天の望みを果たすことは、子供たちにとっては、時々難しくなるのです。
なぜなら、どんなに知恵深い人であっても、その人自身の考えは神の考えとは違うことがあるのです。
あなたは、あなた自身の衣を脱ぎ捨て、新しい衣を着なければなりません。
それは成聖の道であり、すべての聖人たちが辿った道であるです。
生やさしいことではありませんが、できないことではないのです。
天上にいる多くの聖人たちがその証明です。
イマクラータ、信頼して歩みなさい、わが子よ。
では質問を聞きましょう。
Q:(信徒名)さんに対するCの認識は正しいものですか。
A:正しいのです、イマクラータ。無意識のうちに、あるいは意識はあっても、このように使われてしまうことがあるのです。それは自我の問題なのです。人々もまた、まことの謙遜を学んでいかねばなりません。
Q:Yesだとしたら、ガラスの容器に入った毒豆のヴィジョンは(信徒名)さんのことではなくて、(信徒名)さんのことだったのですか。
A:そうとってもよいでしょう。よい実のなる木の種と、悪い実のなる木の種とは、種のうちには区別がつかないのです。実がなって初めて分かるのです。ですから外見にごまかされてはならないのです。邪悪なるものの力が、全く光の子と見える者に働いていることがあるのですから。
祈り、識別し、常に警戒していなさい。あなたたちはその実で判断しなければなりません。では祝福しましょう(後略)
powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM