聖別の時にひざまずく

小教区より 3


無効のミサとは聖変化が起きないミサです。将来、無効なミサが私たちにもはっきり無効だと分かる日が来ます。今は、司祭が唱える「聖変化の言葉」を会衆が全員で司祭と共に唱和したり、司祭が聖変化の言葉を故意に変えて言ったりした場合にはそれは無効なミサだと考えればよいと思います。有効なミサか無効なミサか分からない時には、有効なミサだと信じて与ればよいのです。次のお手紙では、司祭が天のメッセージについて説教中に触れたことが報告されています。(Hさん)


「うちの小教区では ミサにあずかる方は100人程です。数ヶ月前から聖変化時の跪きがなくなっています。 変更のプリントが配布されてミサ後の祈りを跪いて行われていたのもなくなり、 違和感を覚えました。ミサの中で跪くという姿勢はとらない、と説明がありました。

聖変化の時に跪いている方は見かけません。 土曜の少人数のミサでは時々 外国の方が跪かれています。 聖体拝領時に口で受ける方は私の他にひとりか二人くらい、以前に外国の方で跪いて口で拝領されている方を見たことがあります。

私は変更があってから聖変化では立っています。 聖体拝領は立って 口で受けています。ただ拝領後とミサ後は跪いて祈りを捧げるようにしています。

他にも今年に入り ミサの形式でいろいろな変化があり、 とまどいを感じます。

ミサの説明で 過ぎ越しの祝いという言葉を多く使われるようになりました。

ミサ中の奉献文や使われる言葉に、わかりにくいものの変化があるように思えることがあります。それで 有効なミサとそうでないミサというものを 私達一般信徒に見分けられるのだろうかと疑問をもちました。ロザリオを捧げて導きを信じるばかりです。

ミサ中に司祭が、マリア様が手で聖体を受けてはいけませんと言われたということは有り得ない、と話されて マリア様は分裂をもたらさないと言われたので、 その後で 口で聖体拝領するには勇気がいりました。 弱い自分を感じましたが、 天からの助けも感じられ口での拝領を続けさせて頂いています。

以上のような状況です。 皆さんと祈りでつながって、日本のために霊魂の救いのために祈り小さなことを捧げる日々を過ごしています」



次のお便りを送って下さった方はで、典礼委員長の梅村司教様がご聖体を口に授けておられる写真を送ってくださいました。2014年5月18日の教会報「やまて」に掲載された写真です。ご希望の方がいらしたら、メールで送ります。(Iさん)


「先程、梅村司教様のご聖体授与の図を送らせていただきました××です。

イマクラータさんに送らないと、と思ってしまいまして


お忙しいことと思いますので、お返事はどうぞご心配なく。

地方などで困っている方がいらっしゃれば、よろしかったら差し上げてください



ミサの後でロザリオを祈ることができる教会があります。平日の朝ミサで、人がいなくなってから数人で祈っているそうです。以前、ロザリオを祈る教会は護られます、という聖母のメッセージがあったのを思い出しました。(Jさん)


「最近の×××教会では、平日(月~金]は7時の朝ミサ後、2人以上集まれば、一連(または2連)、土曜日は教会の祈りと1環を祈っています。

当×××教会でも、舌で御聖体を受けている方は、平日ですと、3,4人です。主日でも、プラス3,4人くらいかと思います。与っている人数は平日20~30人。主日:早朝:50人くらい。10時:100~120位でしょうか?」

「又、本日の10時のミサ(待降節第一主日)にあずかりましたのでその後の状況につきまして、追記致します。
ミサの前に典礼委員から簡単な説明がありましたが、ひざまずいていた人も何人か(2~5人位?)居たそうです。(自分含む)。ミサ後の委員からの説明でも『初めてだから間違えても気にしないでください。』『色々意見があるでしょうが、(できるだけ?)御協力お願いします』と言うニュアンスのお知らせは在りましたが、強い圧力的なものは感じられなかったので、一まず安心しました」



もう一つ、現段階での小教区の状況を伝えてくださったお手紙を紹介し、この「小教区より」を終えたいと思います。(Kさん)
そして最後に、東京の三河島教会の教会報「虹」が送られてきましたのでその記事も紹介したいと思います。今回、小教区の現状報告をしてくださった方々、ありがとうございました。


「現時点におきましては、膝まづきも舌による拝領もそれほど問題視されておりません。約150人ほどの教会なので個人的な所作におきましては、他の信者様からも何も苦情はでておりません。舌による拝領される方は10人ほどおられます」



☆☆☆

「虹」

深まりゆく秋、
魂の力なるロザリオを手に

協力司祭  李 春燮

昨年の冬、義兄がストレスによって、緊急入院したとの連絡があった。事業関係で、本人の力で解決出来ない程の法的、金銭的な問題等による精神的な病で病院での検査と治療、家族の介護も虚しく、結局亡くなり、急ぎで韓国に帰ることになった。

葬儀の後、残された家族の悲しみと傾いた事業で、姉と残された三人の子供達は気力を失いかけていた。不幸に不幸が重なることに葬儀の数日後、姉は長男と義兄の事業場を見回っているうちに倒れ、亡くなった義兄と同じ病院に緊急入院した。脳梗塞だった。

何もできない私は、これが人生というものかと苦しみに踠(もが)くだけだった。意識も戻っていない姉と未だ成人していない甥を残して日本に戻らざるを得なかった。韓国を離れていて、兄弟として何も出来ない自分を思うと、無力感と鬱で苦しんだその時、弟であり、家族であり、司祭である私が出来る事は、ロザリオの祈りだった。ロザリオの祈りの時は、限りなく悲しくもなるが、私たちの母、マリアの痛みを思うと限りない慰めも感じることができた。

マリアの一生を黙想しながら、ひたすら祈り続けた。その祈りが、マリアの取次ぎによって神様に届いたのか。姉は、子供の顔と名前が分かるようになり、身の回りの事もある程度できるまでに回復に向かっている。小さな奇跡ではないかと思う。

生きて行く中で、私が経験した最も悲しい事は、愛する家族との死別でしょう。また、若い義兄がこの世を突然去った後、残された家族の悲しみは余りにも大きなものです。

苦しみの中に居る時のロザリオの祈りは、最高の祈りです。ロザリオの祈りはカトリック信者の普遍的な、いつ、どこでも捧げられる簡単な祈りです。習慣的に速く唱える祈りになりがちですが、イエス様の一生をマリアと共に思い巡らしながら、黙想する祈りです。祈りを捧げる度、聖母の心でイエス様を黙想してみましょう。馬小屋で生まれ、温かい聖家族での生活、希望に満ち、活気溢れる公生活、善い牧者として生き、苦しみの十字架上の死、栄光の復活をゆっくり吟味すると、いつの間にかすべてが癒され、神様の愛を感じることでしょう。

悲しみや深い心の傷を覆った(マゝ)時、
 迷わずロザリオを手にしてみてください。
深け行く秋、魂の力であるロザリオを
 手にマリアの様に生きて行きましょう

(太字は原文)

(2015年12月17日)

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小教区より 2



今回、送られてきた小教区の情報では、それぞれの小教区で舌で拝領する人が複数いることが分かりました。しかし、たった一人という小教区もあります。(Dさん)


「私だけです。口でごせいたいをうけているのです」


次のお手紙は関東の小教区の信者さんからの報告です。お手紙には、勇気ある、聖なる司祭のことが紹介されています。(Eさん)


待降節からの変更箇所については、事前にいろいろな情報があり気にかかっておりました。
道理や意味をご説明くださり、大変参考になりました。
まずは、在籍している、××県○○教会の状況をお伝えいたします。

信徒数:約1700名
聖変化時:私も含めみなさん立ってお辞儀をする方のみ
聖体拝領:私とほかに一人の方が跪いていただいている

11/22の王であるキリストの日に添付の書面が聖水盤横においてあり、各自お読みくださいとお知らせでアナウンスされました。
11/29の待降節第1主日には、ごミサの前に神父様より数点の説明がありました。

①福音朗読の前に額、口、胸で十字のしるしをすること
②聖変化では立っておじぎをすること
③奉納の時は座ること
が説明されました。その他はおいおいにします、ということでした。

神父様が特にご説明熱心だったのは、①です。何回も丁寧にやり方をお話ししてくださいました。神父様はフィリピンの方です。

幸い聖体拝領は現在も跪いていただけております。
私自身、聖変化での敬意を表す動作について、今回のことで非常に勉強になりました。

現在、所属は○○教会ですが、○○2、△△△1(母の所属)、□□□□□修道院1の割合でごミサにあずかっております。
まだ△△△教会の対応については、わからない状況です。
しかし、△△△教会は今年より中央協議会の神父様の司式が増え、先日その神父様に今後は立って聖体拝領するよう注意されました。
母は、神父様に立たされそうになったのを拒否して、跪いたままいただいたとのことです

△△△教会は下記の状況です。
聖変化時:母も含めみなさん立ってお辞儀をする方のみ
聖体拝領:母とほかに一人の方が跪いていただいている

今回のことは非常に嘆かわしいことですが、いずれ起こることだったことであり神の御手のうちにあるものなのでしょう。

昨年イマクラータ様のローキューションにあった、「群れを二分させるため」ということにもあてはまるのかなと考えております。

御聖体は跪いて受けるべきと教えてくださっていた横浜教区のある神父様は、7月末に祖国に帰国されてしまいました。

帰国予定の2週間もない状態での発表や、行く先が決まっていないことなど不自然な印象でしたが真相はわかりません。

日本での最後のお説教で、イエズス様(イエズス様といつもおっしゃっておりました)は神の子であり、つまり神様である。教会へ行く意味はイエズス様のためだけであり、その他の目的はない。ほかに目的があったとしたら捨てるよう仰いました。
イエズス様のためだけ、永遠の命を得るためだけを目標をしていれば、共同体の分裂など対立なども起きないとも仰いました。

私たちはこれから更に厳しくなっていく中で、真理を信じ、守っていかなければならないのでしょう。

イマクラータ様の仰る通り、御聖体に対する信心を燃え上がらせてゆかねばなりません。

ノヴェナもあと2日ですが、日本の救いのためというのはこういう意味も含んでいると考えて行っております

ロザリオの十字軍のためにもお祈りいたします。祈りのうちに。



自分の信じるところを信徒に向って言う司祭は迫害を受けます。そのような勇気ある司祭のために私たちは祈らねばなりません。次の手紙は埼玉教区の小教区の方のものです。(Fさん)


「平日は××教会の朝ミサに通っています。ほぼ10人程度の参加者があり、自分以外に、聖変化、聖体拝領の際にひざまずく(省略)の女性が一人います。司祭は教区司祭で自分とほぼ同年代の人なのですが―(省略)―、先日ミサの説教中に待降節からの変更箇所の説明があり、

『日本の教会では、どういう訳か立つ事を基本姿勢としてひざまずかなくなったが、ローマの規範版ではひざまずく事が書かれてあり、日本の適用の物より上にあるのでひざまずく事を禁止はしない。もし今、祭壇の前でマリア様がひざまずいて祈っていたら、立たす事はできない』という話をされたのでほっとしました」

「その後埼玉教区の司牧者会議があり、今度の待降節から始まる典礼の変更箇所の説明が岡田大司教(教区管理者)と担当司祭から説明されたそうなのですが、――(省略)――『新しい指針に従わない人がいても取り締まったりする事はないように、ただベトナム人などの外国人の司祭叙階式など千人以上の参列者がある場合には、ひざまずく信者が多数いるとミサが滞るので立つ様に指導するように』という話をされたようです」



次のような司祭もおられます。東北の小教区の方からのお手紙です。(Gさん)


「聖変化の時に立つ様にと指示がありましたが、当神父様は、立っていようがひざまずこうがどちでもいいじゃないかと云うことでした。

ひざまずき台もありますので問題ないと思っています。××教会の信者はミサにあずかる人は5、6人です。フィリピンの信者も何人か来る時もあります。60歳以上、80歳です。私も調子が悪い時もありますので月に一日くらいで―(省略)―ロザリオと十字軍の祈り、全免償、霊的聖体拝領をしております
」(以下は次回に)


(2015年12月12日)

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小教区より 1



小教区の状況をお知らせくださいましてありがとうございました。返事は出せませんでしたが、この場を借りて御礼を申し上げます。

当たり前ですが、教会は一枚岩ではないと感じました。今回寄せられたお手紙から、関係個所を引用させていただき、情報を皆様と共有したいと思います。

以前いただいたお手紙では、「舌で拝領するためにはパテナが必要で、この教会にはパテナを口の下にあてがう人がいないから手で拝領してください」という内容のことを言われたり、あるいは、ある小教区では口で拝領する人が、小教区に関係するシスターに、手で拝領することが司教様の御意向ですと手で拝領するよう圧力をかけられたりした経験が伝えられました。また、一方ではこれは10年ほど前に私が通っていた都内の教会で、主日のミサの説教である修道会の修道院長がおっしゃったことですが、ある教会の神父は舌で拝領する信徒に「お前は犬か」と言ったということを信徒から聞いたと語り、その司祭の態度を非難しつつ、むしろ舌での拝領が本来の拝領の仕方だ、と憤慨しておられたことを思いだします。

以下に今回寄せらたお手紙を部分的に紹介させていただきます。尚、ご迷惑がかかるといけませんから、固有名詞は伏字にします。

先ず、以前にも引用させていただいたお手紙の一部です。(Aさん)


今日はooo教会では、ミサの変更箇所の動作の確認とゆうことで、御聖体の手の拝領と、聖変化時に起立をし御辞儀する。など 説明がありました。一番先にoo神父様から講話の形で色々お話が有りましたが、頭に残っていません。
印象として、簡単に言えば司祭は「跪かせたくない、舌の拝領をさせたくない」様々な理由を付けて「神様を礼拝させたくない」のだろうなと思ってしまいました。サンダミアーノで手の御聖体拝領を強要された時は、霊的聖体拝領をしなさい。と教わりました。

その時が来たんだなと思いながら帰ってきました。これから「侮辱を恐れざる恵をこいねがわん」の祈りが真に必要な時が来たと感じました
。」


次は少し長いですが、いろいろ示唆に富む文章なのでそのまま引用させていただきます。尚、このお手紙は、ミサ中、聖別のときにひざまずくこと3をアップする前に頂いたものです。(Bさん)


私(××県)でも ミサの変更の説明がありました。正直… 居場所がなくなると不安を感じました
××はご想像の通りの田舎で、神父様3人で4つの教会を順にまわっています。

御聖体に御血をつけて…
との聖体拝領もありました。
これは禁止の筈ですが…されています。
勿論、私だけ霊的拝領にて席を立ちません。

私も今回の改正の件で悩みました。
色々、葛藤があり(省略―原文まゝ)自分の持つ信心を通します
決心しました。

口での御聖体、ひざまずく事を神父様に告げる予定です

自分の信心を守りつつ御ミサに参加しても宜しいですか?と

神父様は従順との決まりがあり意思とは別の返事をしなければならないお辛い状況の方もいらっしゃいます。
なので… Yes Noのお返事によりその教会を去る決心をしました。静かに消えて行くイメージです

去る←信心を捨てるとの意味ではありません。
信心を守れる場所でミサに預かります
それが私の答えでした。

神様へ嘘はつけないんですよ
敬意捨てたくないって気持ちもお見通しなんです(^o^)
だから素直に生きます。

ただ…県内は、全て同じ神父様なのでNoと言われた時には…帰郷時にしかミサに預かれない悲しい状況になりますが

個人的に平日…告解をお願い出来るし
霊的聖体拝領も出来るし
求めてる以上…残された通を大切に進みます

××に限らず田舎の教会の方々は私と同じ、苦しい状況と思われます

どうか、強い信仰
神様を愛する気持ち、道は必ずあること
絶対、妥協しないこと
司祭達を責めないこと
強く願って、皆様を応援しています。

あの頃の不安だらけの私とは違い祈りのパワーが私に力をくれました

1日4~5環のロザリオ
子供達は朝の祈りと1環のロザリオ
今も続いています (^o^)



口での拝領は、私たちは絶対妥協はできません。

次のお手紙です。多くの小教区では、かなり以前から聖変化の時に立っているようです。そのように仕向けた人たちがいることは確かです。(Cさん)


「私は××市の××教会に行ってます。26年前に洗礼を受けました。その時以来ずっと聖変化のとき膝まずく人をみたことはありません。私も周りに流されて、数回しか聖変化のときに膝まずいたことがありません。」

「ご聖体は、当時は一回のミサで五人ほどは口で拝領していた記憶あります。いまは私のほかに一、二名?」

「ミサが終わり神父様が出ていかれたあとの聖堂は、まるで教会の目の前にあるデパートの中のようににぎやかです。以前よりひどい。祈る人も数人いるのですが、多分、気づかないのでしょう…それ以前に、聖堂では沈黙なのですが、大変悲しく思います。目の前にイエズス様がおられるのに。社交場になっています。」

「祈り続けることは甘美でもありとても苦しいと、この年で初めて知りました。神にすがりついています… 」



そして11月29日の待降節第一主日のミサの後で連絡がありました―


「ミサの帰りです。

隅っこの席で聖変化のときひざまずくことが出来ました。私の場合、ただの人間的な恐れです。誰も立つようには言われませんでした。

ご聖体もお口でいただきました。

感謝です。」
(以下は次回に)



(2015年12月9日)

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ミサ中、聖別のときにひざまずくこと 3


今夜(2015年11月25日)、外出したら外気温1度で、みぞれ混じりの初雪でした。毎年雪が降ると、なんとなくうれしいのですが、そのうちに雪かきやら何やらで大変な仕事が待っています。


■小教区で

今まで、言わば「正しい道理」を書いてきました。それは「総則」の真の意味を知る上で必要なことだと思います。聖別の際に立つ必要があるかないかでいえば、昨日、一昨日に書いてきたように、「総則」に照らして立つ必要は全くないのです。しかし、問題は、必要性のことではなく、必要がないのに強制的に立たされる状況があるということです。それはひざまずいて聖体拝領することを禁止されることも、あるいは場合によっては手による拝領を強制されることも同様です。「総則」で推奨されている事が禁止されるのです。それは世界中で起きていることです。

それでは、実際の小教区のミサにおいてどう対応していけばよいのかを考えてみます。ヒントは過去の天のメッセージです。

現代主義者たちは論理的正当性を無視して、その必要のない「立つこと」を強制してくるでしょう。

東京四谷の聖イグナチオ教会のような多人数の信徒の与る大きな教会でのミサと、地方の、信徒が数人しかいない小教区のミサ、あるいは司祭が現代主義者か伝統を重んじる司祭かによっても事態は変わって来るでしょうが、後ろの席で聖別の時にひざまずいても何も言われなければそのままミサごとにひざまずくことを続ければよいですし、もし、何らかの形で立つことを強制されたなら、次のミサからは聖変化の時に立ったまま深くお辞儀をする前に(司祭がホスチア、カリスを奉挙するとき)「敬意を示す動作」―たとえば片膝をつくか、立ったままで十字架の印をしたらよいと思います。そういう敬意を示す動作の後で、他の信徒と一緒に立ったまま手を合わせて深くおじぎをするというふうに。

もう20年以上も前に、天のメッセージでは、当初、聖体拝領は「ひざまずいて舌で拝領する」ようにと指示されていました。ところがだんだん、世界中の教会で司祭が、ひざまずいて拝領することを許さなくなりました。するとメッセージでは、ひざまずいて拝領できない教会では、立って拝領してもよいが、立って拝領する場合には、列に並んで、拝領する前に、何らかの敬意を示す動作、片膝をついたり、十字架の印をしてから、立ったまま舌で拝領するようにと、指示が変わりました。それに準じての対応です。

教会を去るべき時は必ず来ます。信徒だけではなく、真実に忠実である司祭にとっても教会から逃げるべき時が来るのです。(そのような司祭を支えるのは私たちレムナントです)でも、今はまだその時ではありません。ミサはまだ有効だからです。ミサが有効であるということはミサに与る恵みがまだあるということです。ですから、上に書いたような対応が良いと思うのです。

聖変化の時にひざまずくことは、ホスチア・葡萄酒が、主キリストの御血、御体、御霊魂、御神性に変化したこと、つまりイエズス・キリストそのものに変わったことを信じるという信仰表明の行為です。ひざまずくということは、謙遜の、また相手に対する敬意を示す最高位の身体的表現です。それを立って深くお辞儀することに変えるということは、信徒の御聖体に対する信仰を弱め、薄めてゆく結果となります。ですから、逆に私たちは、御聖体に対する信心を燃え上がらせてゆかねばなりません。

強制されて聖別の時に立っても、敬意を示す動作をしてから立ったまま深くお辞儀をすることは程度として冒瀆とは言えないと確信します。天は状況をご存知です。しかし、手による聖体拝領は、程度において冒瀆が勝ります。それは絶対にしてはならないことです。

日本の教会の公文書は下のところで手に入ります。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/doc_bsps.htm


総じて、これから教会は真実を紛らわす方向へと突き進んでゆきます。私たちが真実を宣言しなければならない時は来ます。今はまだその時ではありません。真実が完全に否定される段階にはまだないからです。

私たちが黙想すべき天の言葉を幾つか挙げてみます。いずれにしても「恐れ」とは戦わなければなりません。恐れはサタンの道具です。主に完全に信頼していれば何も恐れる必要はないのです。恐れる状況に遭遇したなら、心の中で主イエズスに助けを求めましょう。主は御旨を行う者を必ず助けてくださいます。でも、これは人間の眼で見て事態が好転するような助けとは限りません。殉教者が助けられたのと同じ助けかもしれません。

人々があなたたちを捕えてわたそうとするときには、どう言おうかとかあらかじめ心配することはない。ただその時あなたたちに恵まれる言葉を言えばよい。それを言うのはあなたたち自身ではなく聖霊である」(マルコによる福音書第13章11節 フィデリコ・バルバロ訳)

あなたたちが強く留まり、勇敢であり、穏やかで平和であることを確かなものとするために、あなたたちはこの十字軍の祈りを唱えなければなりません。これらのことが起こるということを受け入れ難く思うあなたたちの中の多くの者たち、あなたたちが日に三度この十字軍の祈り第158番を唱える日が来るでしょう、なぜなら、わが聖子を否むようあなたたちに向けられる圧力は抗し難いものだからです」(マリア・ディバインマースィー2014年6月28日メッセージ)

イエズス・キリストに忠実なる者たちは、祈りに時間を割き、彼らが日々直面しなければならない反対に対処するための助けを乞うことなしには、真実を宣言することはできないでしょう」(マリア・ディバインマースィー2014年6月28日メッセージ)

あなたたちの中のどれくらいがこの勇気を持ちあわせているだろう。あなたたちが真実を宣言するときに襲い来る迫害に、あなたたちのどれほど多くが耐えることができるだろうか」(マリア・ディバインマースィー2014年2月22日メッセージ)(2015年11月25日)

カテゴリ→聖別の時にひざまずく





ミサ中、聖別のときにひざまずくこと 2


今日は曇りです。天気予報では、雪が降るかもしれない、と伝えられていました。昨夜は星が見えませんでした。2,3日前は、素晴らしい満天の星空でした。オリオン座が見え、その下に1等星のシリウスが冬空に輝いていました。
ところで、冬なのに台風が来ています。2,3日前に気づきました。福島からの放射性の気流があるので「嵐を防ぐ祈りまたは祝福」を祈りましょう。

昨日の「ミサ中、聖別のときにひざまずくこと」の文章に対して早速、地元の小教区の状況を説明したメールをいただきました。たいへん参考になりました。

少し前に発令された「日本に於けるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」の10ページには、「拝領者自身が、聖別されたパンを手で受けるか口で受けるかを選ぶことができます」とちゃんと書いてあるにもかかわらず、小教区では、手による拝領を強いるような動きがあるようです。

これはお願いですが、このサイトを読まれている方の小教区での状況をお知らせ願えればと思っています。信徒の人数、聖変化の時にご本人はひざまずいているかどうか、周りの信徒はひざまずいているかどうか、口で拝領する人がいるかどうか、拝領方法や聖別の時に立つことに関するの司祭の説明などを書いて送っていただければ助かります。体調が今すぐれず返事は書けませんが、できましたらよろしくお願いします。

「今日はooo教会では、ミサの変更箇所の動作の確認とゆうことで、御聖体の手の拝領と、聖変化時に起立をし御辞儀する。など 説明がありました。一番先にoo神父様から講話の形で色々お話が有りましたが、頭に残っていません。
印象として、簡単に言えば司祭は「跪かせたくない、舌の拝領をさせたくない」様々な理由を付けて「神様を礼拝させたくない」のだろうなと思ってしまいました。サンダミアーノで手の御聖体拝領を強要された時は、霊的聖体拝領をしなさい。と教わりました。
その時が来たんだなと思いながら帰ってきました。これから「侮辱を恐れざる恵をこいねがわん」の祈りが真に必要な時が来たと感じました。」(送ってくださったメールの一部抜粋)

昨日の続きです。
■また、日本語版の総則43に書かれてある「同一の祭儀において動作と姿勢の統一を得るために、信者は、ミサ典礼書に定められたことに則って、助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示に従うようにする」を根拠に、だから聖変化の時には司祭の述べることに従って立つよう言う人がいるかもしれません。これは以下の二つの文を見比べてみます。

C:「信者は、ミサ典礼書に定められたことに則って、助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示に従うようにする」(改定訳)
D:「信者は、ミサ典礼書に定められたことに従って助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示をよく聞くことが大切です」(暫定訳)

Cは、今回の「変更箇所」の中で引用されている『ローマ・ミサ典礼書の総則』の改定訳です。Dは、その前の翻訳版である『ローマ・ミサ典礼書の総則』の暫定版です。

Dの方は、助祭や司祭が述べる指示の内容を限定しています。すなわち「ミサ典礼書に定められたことに従って」助祭や司祭が述べることを、信者は良く聞くことが大切だと言っています。これは、ミサ典礼書に定められていることに矛盾したり、ミサ典礼書に書かれていないことに関しては当てはまらないということを言外に示しているといえます。これはミサ典礼の際限の無い無軌道化を防ぐうえで重要なことです。

ところが、改訂版のCの方では、「則(のっと)って」のすぐ後ろに「、」を打ってしまったことで、何も知らない人が初めてこれを読むなら、「信者は、ミサ典礼書に定められたことに則って、指示に従う」という意味、つまり、あたかも助祭や司祭の指示に従うことがミサ典礼書に定められていて、それにしたがって助祭や司祭の述べることに従う、という意味にも取れてしまいます。

つまり、Dの文では、助祭や司祭の述べることがミサ典礼書に定められている内容に限定されているのに対し、Cの方では、助祭や司祭の述べることに範囲の規定がない、一般的な内容に拡大されて解釈し得るようになってしまいます。

ちなみにこの箇所の英文を見てみると―

the faithful should follow the directions which the deacon,lay minister,
or priest gives according to whatever is indicated in the Missal.

とあり、文意は明らかにDの方です。

ですから、「信者は、ミサ典礼書に定められたことに則って、助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示に従うようにする」という箇所を理由に、司祭がもし聖別の時に立つように(ひざまずかないように)強制するような事態に遭っても、ミサ典礼書には、聖別の時に立たねばならないという定め事はないので、その司祭の「述べること」に従がう必要はないのです。「総則」に従がった個人の信仰表明である「ひざまずくこと」が優先されるのです。

■「ローマ・ミサ典礼書の総則」(暫定版)の42に「すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致の印である。それは、参加者の心情の表現であり、また心情をはぐくむものだからである」とあります。

この部分を盾にして、大半の信者が立ったままでいる聖別の際にひざまずくことは総則の精神に反する、あるいはキリスト者共同体の成員の一致の印とならないなどと、聖変化の時にひざまずくことを非難する人がいるかもしれません。

しかし総則42の全文を引用すると、

42司祭と助祭と奉仕者の動作と姿勢、あるいは会衆の動作と姿勢は、祭儀全体が優美さと高貴な簡素さによって輝き、祭儀の個々の部分が正しく十全な意味が理解され、全員の参加が促されるよう努めなければならない。それ故、個人の好みや自由裁量に対してよりも、本総則とローマ典礼様式の伝統的な実践によって定められたこと、並びに神の民の霊的共通善に寄与することに対して注意が向けられなければならない
全ての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。それは、参加者の心情の表現であり、また信条をはぐくむ者だからである


と書かれてあるように、42が総則に書かれた主旨そのものは、「動作と姿勢」は「本総則とローマ典礼様式の伝統的な実践によって定められたこと、並びに神の民の霊的共通善に寄与すること」に注意が向けられるべきで、それを参加者の共通の姿勢とすべきであるということです。

ですから、「全ての参加者が共通の姿勢を守る」ことの重要性を理由に聖別の際にひざまずくことを一致を阻害するものだという人がいれば、それはまさに本末転倒と言わざるを得ないでしょう。聖別のときに「ひざまずくこと」は「本総則とローマ典礼様式の伝統的な実践によって定められたこと」であることは紛れもない事実だからです。

聖変化の時に立つことこそ例外的な姿勢で、一致云々を語るならひざまずく方に全体を合わせるべきです。ですから、キリスト者共同体の成員の一致を理由に聖別の際に立つよう指示することは正しい指示とはいえません。


体調があまりよくないので、以下は次回とします。(2015年11月24日)

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ミサ中、聖別のときにひざまずくこと 1



新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に元ずく変更箇所の導入が、2015年11月29日(待降節第一主日)から日本において実施される旨の教令が、日本カトリック司教協議会会長、「岡田武夫」名で2015年4月5日の復活の主日に発令されました。

その中で、聖変化の際に日本では「会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭並びに助祭とともに深く礼をしなければならない」と書かれてある箇所が一部の信徒のあいだで問題となっています。

「会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭並びに助祭とともに深く礼をしなければならない」ということは「跪いてはいけない」と解釈できます。使徒座が公布・出版した『ローマ・ミサ典礼書の総則』(日本語訳暫定版)の43には

43 信者は、入祭の歌の始まりから、あるいは司祭が祭壇に向かうときから集会祈願の終わりまで、福音の前のアレルヤ唱のとき、福音の朗読の時、信仰宣言と共同祈願の間、そして、奉納祈願の祈りへの招き「みなさん、この捧げものを・・・・」からミサの終わりまでは立っているものとする。ただし、以下に述べる部分は除く。
座るのは、福音の前の聖書朗読および答唱詩編の間、説教の間、奉納の供えものの準備の時である。また、適当であれば、拝領後の聖なる沈黙の間にも座る。
健康上の理由や、場所が狭かったリ、出席者の数が多かったり、他の重要な理由がないかぎり、聖別の時はひざまずくものとする。しかし、聖別の時に跪かない者は、聖別後に司祭がひざまずくときに、深く礼をしなければならない
しかし、ミサの式次第に記されている動作や姿勢を法の規定に従って国民性や民族の正当な伝統に適応するのは、司教協議会の権限である。ただし、祭儀の各部分の意味と性格にかなったものなるよう指示すべきである。会衆が、感謝の賛歌が終わってから感謝の祈り(奉献文)の結びまで、また、拝領前に司祭が「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」を唱えるときに跪くことを続ける習慣がある所では、これは尊敬をもってた保たれる。
同じ祭儀において動作と姿勢の統一を得るために、信者はミサ典礼書に定められたことに従って助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示をよく聞くことが大切である。


と書かれてあります。「ローマ・ミサ典礼書の総則」に元ずく変更箇所は、その変更箇所を含むに日本語訳改定版「ローマ・ミサ典礼書の総則」として2014年5月に典礼秘跡省によって認証されたとあります。この改訂版は日本でまだ発行されていなくて、今回、その改定訳の変更箇所だけが公けにされました。

■先ず、ここで不思議に思うことは、「ローマ・ミサ典礼書の総則」に聖別(聖変化)の時には重要な理由がないかぎり「ひざまずく」ものと規定されていることを、日本語版で「会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭並びに助祭とともに深く礼をしなければならない」と変更したことが典礼秘跡省によって認証されたということです。極簡単に言うと、使徒座が重要な理由のない限り「ひざまずく」と規定したものを日本の司教団が実際的意味として「ひざまずいてはならない」と変更した、それを使徒座自身が認可したということです。これはいくら何でもおかしい。「ひざまずく」と規定したものを「立ってもよい」と変更したのであるなら納得はいきます。

少し考えました。そして分かりました。次の二つの文を比べてみます。

A:「会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭並びに助祭とともに深く礼をしなければならない
B:「しかし、聖別の時に跪かない者は、聖別後に司祭がひざまずくときに、深く礼をしなければならない

Aは、「ならない」が「立つ」という動作と「深く礼をする」という二つの動作を規定するように読めます(手を合わすにもかかりますが、省きます)。立たねばならない、深く礼をしなければならないと。
Bの方は、深く礼をしなければならない、つまり「深く礼をする」という動作だけに「ならない」がかかります。

この日本文Aを書いた人は、以前の翻訳版「ローマ・ミサ典礼書の総則」(暫定版)に書かれてあった文B、「しかし、聖別の時に跪かない者は、聖別後に司祭がひざまずくときに、深く礼をしなければならない」の「深く礼をしなければならない」の部分を変更箇所を書くときにそのまま採用したのだと推測されます。その結果、日本では「会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭並びに助祭とともに深く礼をしなければならない」という、読み方によっては「立たねばならない」すなわち「跪いてはならない」という意味の文章になったのだと考えられます。

それなら使徒座がその変更文章を認証したことも不思議ではありません。つまり、使徒座はAの文で「ならない」がBのように「深く礼をする」という動作だけにかかると解釈したのです。つまり「立つ」ことに関しては、日本においては「立ってもよい」と許可を与えたというニュアンスだと解せます。その場合には、従来からの規定にあるように「深く礼をしなければならない」と。それはそうです、使徒座が聖変化の時にひざまずくことを禁止するような文言を認証することは、少なくとも今はありえません。

つまり、聖変化(聖別)の時に強制的に立つよう言われたとしても、それに従わなくとも、それが司祭や司教に対して反抗的であるとか不従順であるとか考える必要はないのです。

■発表された新しい「『ローマ・ミサ典礼書の総則』に元ずく変更箇所」の中には、8ページの説明に「個人的な好みや自由裁量によって(動作や姿勢を=引用者注)決めることは望ましくありません」と「総則42」を引用して書かれてありますが、仮に聖変化の時にひざまずくことを問い詰める具として「総則」にかかれてあるこの文章を用いる人がいたとしても、「ひざまずく」ことは「個人的好み」でも「自由裁量」でもありません。「総則とローマ典礼様式の伝統的な実践によって定められた」(「総則42」)れっきとした動作なのです。ですからそのような批判はあたりません。それは正当な批判ではありません。

少し疲れてきましたので、続きは後日に。(2015年11月23日)

カテゴリ→聖別の時にひざまずく





















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