2016年7月

義務が優先

昨日は、やりくりができる人は、4時に起きてでも8月はミサに毎日与るべきだと書きました。それは、恵みがが大きいので奮起すべきだからです。しかし、一方で、いろいろな生活上の義務を果たさなければならない人は、その義務を優先すべきです。それは生きている限り常にそうです。ここに、聖人の著した一冊の本があります。ポルト・マウリチオの聖レオナルドの『隠されている宝―ミサ聖祭』(庄治 篤訳)という本です。その本では「毎朝ミサ聖祭に与り、御聖体を霊的(または秘跡的)に拝領することを、あなたのいと甘美な、最愛の信心としなさい」(84ページ)と言って、毎日ミサに与ることを強く勧める一方で、様々な義務を担う女性に関しては、「これまでの実例で示されているように、ミサ聖祭から得られる恵みは実に偉大ですが、すべての女性が、週日に教会へ行くのは、非常にしばしば、ふさわしくありません。

子供を育てたり、善徳や愛徳のために、或いは何かの動機によって、病人の世話をする義務があったり、夫がつむじ曲がりで家を離れることを禁じたりする場合、それについて心を乱すべきではなく、また、もっと悪いことですが、不従順であってはなりません。と言うのは、ミサはこの上なく聖なるもので、既に説明したように、最大の恵みをもたらしますが、このすべてに対して、従順と自己意志の否定の方が、あなたの場合、もっと良いのです。

否、あなたの慰めのために知っておきなさい、そのような従順によって、二倍の恵みと功徳を得ることを。

神の慈しみは、右のような場合、あなたの従順に報いを与えるだけでなく、また、ミサに参加したものと見なして、あなたの善意を極めて寛大に受け入れるからです。

不従順によって、逆に、あれこれの功徳を失うでしょう。なぜなら、神が聖書の中ではっきりと「従順はいけにえに勝る」(Ⅰサムエル15・22)と断言しておられるのに、その神の御意志より自己意志の方をもっと楽しんでいることを示したからです。

神は、義務とされていない平日のミサやいけにえより、従順の方をもっとお喜びになるのです。
」(107~108ページ)

と主張しています。この聖人の言うことが真実であるなら、義務や愛徳のために8月毎日ミサに与ることができない人は、そのことを捧げて、あとは毎日御憐みのチャプレットを祈り、週一回の断食をすべきです。きっと主は、「ミサに参加したものと見なして」くださるにちがいありません。見なしてくださらずとも、毎日の御憐みのチャプレットと、週一回の断食で、あなたは8月、多くの霊魂を救うことになるでしょう。

(2016年7月27日)




死後、天国へ直行

死後、霊魂がどこへ行くかは人間には分かりません。ただ、私たちには、罪の償いを果たして死ねば天国に直行するという一般的知識があるだけです。
しかし、必ず天国へ直行するという、ごくまれなケースがあり、その場合、私たち人間でも、ああ、あの人は必ず天国へ直行したと分かる事例があります。
たとえば殉教です。
その他にも、これこれのことを果たしたなら、死んだら天国に直行するという天の約束があるかもしれません。殉教も含めてそれらの約束は、言葉を変えれば、臨終に際し全ての罪が赦され全免償が与えられる、と表現できます。このような約束は滅多にありません。

死に際しての罪の赦し全免償があるがゆえに天国へ直行できるのです。

今、この時代に、そのような約束を主が「もっとも厳粛な約束」としてなされました。(MDMのサイト参照)

これを果たすには、毎日ミサに与る習慣のない人にとっては至難の業であるかもしれません。しかし、毎日ミサに与り聖体拝領している人にとっては難しいことではありません。

時間がないために毎日ミサに与れない人は、工夫してやりくりすれば可能ならば毎日ミサに8月だけでも与るべきです。例えば、ほかの祈りを8月だけやめて、ミサに与る時間を捻出するとかです。あるいは、朝4時に起きるだけで毎日ミサに与ることが可能になる人は、8月、そうすべきです。

臨終での罪の赦し全免償が主の最も厳粛な約束として保証され、かつ何百万もの霊魂を救うことができる、このチャンスを何人も見逃すべきではありません。今年が、これができる最後の8月になるかもしれないからです。

しかし、世の中には、いろいろな理由で、毎日ミサに与れない人がいるかもしれません、いや、必ずいると思います。そのような人は、手続き(?)として、毎日ミサに与れる恵みを主に懇願し、そのうえで、与れないことを主に捧げ、毎日御憐みのチャプレットを祈り、週に一回断食すればよいと思います。厳粛な約束には与れなくとも、功徳は積めます。

はなからこのメッセージを信じない人。あなたが信じないことが賢明であったか愚かであったかは、間もなくわかるでしょう。信じないで騙されずに済むより、信じて騙された方がはるかに良いのです。信じないで騙されずに済む安全地帯などというものは、殉教とも犠牲とも、信仰ともまったく関係のない場所です。

私たち主イエズス・キリストに従う者たちは、識別は必要であっても、小賢しくなったなら問題です。



(2016年7月26日)

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