・6月4日は救いの聖母の祝日です―恵みは祈らずしては注がれません
ノヴェナ―5月26日より6月3日
ノヴェナ期間中に毎日祈る祈り―十字軍の祈り第26番(これはロザリオです)、154番,132番、「聖母の汚れなき御心への奉献の祈り」(下記参照)
ノヴェナの祈り(十字軍の祈り)
26日 17,19,32
27日 38,47,63
28日 68,74
29日 91,95,97
30日 98,111,113
31日 130,131
1日 138,143,144
2日 151,153
3日 155,159,166
聖母の汚れなき御心への奉献
乙女マリア、神の御母(おんはは)、われらの母よ、主への全(まった)き委託(いたく)において、われら御身(おんみ)の汚れなき御心(みこころ)にわれら自身を奉献し奉る。
御身によりてわれらはキリストへと導かれん。
キリストによりて、キリストと共に、われら御父(おんちち)へと導かれん。
われら信仰の光の中(うち)を歩み、この世が、イエズス・キリストが御父より遣わされたる御者(おんもの)なることを信じるがために、全てのことを行なわん。
われらキリストと共に、その愛と救いを地の果てまでも伝えん。
御身の汚れなき御心の御保護の下(もと)に、われらキリストと共に一つの民たらん。
われらキリストの再臨の証人たらん。
われらが世々に崇(あが)め、讃(たた)え、賛美し奉る至聖なる三位一体の栄光がために、われらキリストによりて御父へと導かれん。アーメン
ラウダ・シオン
三位一体の主日後の木曜日は「キリストの聖体の祝日」です。
トリエントミサの典礼の当日の続唱にあの美しい「Lauda Sion」(ラウダ・シオン=シオンよたたえよ)があります。「Lauda Sionn」は最初に始まる言葉で、その後には Salvatorem と言う言葉が続き、
「Lauda Sionn Salvatorem」だと「シオンよ、汝の救い主をたたえよ」となります。以下に、1955年版『毎日のミサ典書』(フェデリコ・バルバロ師訳)から「ラウダ・シオン」を引用します。これは13世紀にトーマス・アクィナスによって書かれたものです。これは聖体のなんたるかを要約するものです。かみしめながら、一度は声に出して読むことをお勧めします。なお、以下のURLをクリックすると、「Lauda Sion」の美しいメロディーが聴けます。一度読んだ「ラウダ・シオン」の意味を思い浮かべながら聞けば、歌詞を理解せずともその言葉の持つ格調と神秘が心に染み渡るに違いありません。
https://www.youtube.com/watch?v=F-oyduxFGgE
ラウダ・シオン
シオンよ、汝(なんじ)の救主(すくいぬし)をたたえよ、汝の牧者、汝のみちびき手に、讃歌と称賛(しょうさん)をあげよ。
汝のなしうる限り、主をほめたたえよ、主は、あらゆる称讃に絶(ぜっ)し給うものであり、また、主にとっては、どんな称讃も足らないものである。
今日、汝が特にほめうたうのは、生命(いのち)を与える活(い)けるパンである。
これは、最後の聖なる晩餐のときに、十二弟子に与えられたかのパンである。
ひびき渡る高らかな賞賛をうたえ、われらの心も、よろこびととうとさに満ちたものであれ。
実に、このおごそかな日は、最後の晩餐(ばんさん)の記念の日である。
新しき王のこの食卓において、古き過越(すぎこし=パスカ)は終わり、新約の過越(パスカ)が定められた。
旧(ふる)い式は新しいものに代わり、実体は影を追い、光は闇をはらう。
キリストは、晩餐で行ったことを、記念としてくり返せと命じ給うた。
聖なる制定によって教えられたわれらhは、パンとぶどう酒とを、たすかりのいけにえとして聖別する。
パンが肉となり、ぶどう酒が御血(おんち)となることは、キリスト信者の信仰箇条である。
汝の理解しえないこと、見えないことを、見える事実を超える活ける信仰が主張する。
異なる形色(けいしょく)、象徴的な表面の下に、すぐれた実在がかくれ在(ましま)し給う。
御肉(おんにく)は糧(かて)、御血(おんち)は飲物である、キリストはその双方の形色の下に、完全にこもりまします。
これを受ける者も、切ることなく、割ることなく、分けることなく、全(まった)き実体を受け奉(たてまつ)る。
一人拝領するも、千人拝領するも、ひとしきものを完全にうけ奉る。いかに多くが受けても、つきることはない。
善人・悪人、ともにこれをうける。しかし、その結果は異なる、善人には生命(いのち)のもと、悪人には死のもと。
これは、悪人の死となり、善人の生命となる。同じ糧が、異なる結果を生むのである。
オスティアがさかれるとき、汝の信仰をゆるがすな、一片も全体と同じすべてをふくむものであることを忘れるな。
キリストの御体をさくのではない、ただ形色(けいしょく)だけをさくのである。すなわち実体がへるのではない。
これは、旅人なる人間のパンとなった天使のパンである。子らのまことのパンであるから、犬には投げやるな。
これは、イザアクのいけにえ、過越(パスカ)の子羊、先祖たちがうけたマンナ、などの前表(ぜんぴょう)にかたどられている。
よき牧者、まことの糧(かて)なるイエズスよ、われらをあわれみ給え。われらをやしない、守り、生ける者の国でまことの善を味あわせ給え。
すべてを知り、すべてをなし給う御者(おんもの)よ、死すべきわれらをこの世でやしない、いつか、主の食卓に、われらをも座らせ給え。天の聖人らの仲間として同じ世嗣(よつぎ)に加え給え。
アーメン、アレルヤ。
(ふり仮名は引用者)
(2017年6月17日)
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