終末の時―大警告・再臨におけるカトリックの伝統と正統な信仰を求めて

アンナ・カタリナ・エンメリックの預言

アンナ・カタリナ・エンメリックの預言

福者アンナ・カタリナ・エンメリック

福者アンナ・カタリナ・エンメリックの預言1

アンナ・カタリナ・エンメリック(1774年9月8日~1824年)ドイツの聖アウグスチノ会の修道女。聖痕を受けた。2004年故教皇ヨハネパウロ2世によって列福。
知人から送られたきたアンナ・カタリナ・エンメリックの預言を下記に載せます。15年以上前にある団体が発送したものです。MDMのメッセージが広まるべき今こそ、この預言も読まれるべきだと思います。今この幻視を読むと、MDMのメッセージと約200年前の預言との相似に驚きます。

1820年5月13日 幻視

私は偽りの教会の結果がいかに有害であるかを見ました。それは次第に大きくなってあらゆる種類の異端が、ローマに入ってくるのを見ました。地方の聖職者は生ぬるくなり、大きな暗闇が見えます。……それから幻視はあらゆる方面に広がりました。全てのカトリック共同体は圧迫され、悩み、制限され、自由を奪われます。多くの教会が閉じられ、全地に悲惨、戦争、流血があるでしょう。野蛮で無知な大衆が過激な行動をとります。しかしそれは長くは続きません。
私はもう一度聖ペテロの教会が、嵐が吹き荒れている間、秘密結社(フリーメイソン)によって展開された計画によって傷つけられるのを見ました。しかし私はまた悲しみの極みに達した時、助けがやってくるのを見たのです。……聖母が再び教会の上にお昇りになり、ご自分のマントを広げられるのを見ました。教皇*はすぐにしっかりとおなりになり教会は新しく生まれ変わり、空高く昇るのを見ました

*この教皇は、べネディクト16世のことを指していると思われます。MDMのメッセージ参照。

1820年9月12日 幻視

私は定則に反して建てられた見慣れぬ教会を見ています。一位の天使すらもその建築作業を監督していません。教会の内部には天より来たものは何一つありません。ただ混乱があるだけで、多分人間の手による新しい異端と同種類の流行の教会なのでしょう。
私は再びローマに建てられる奇妙な大教会を見ました。その中には聖なるものは何一つありません。全ての仕事は機械的に行われたのです。
私はあらゆる種類の人間、もの、教義、意見を見ました。傲慢で、僭越で暴力的でありましたが、大変成功しているように見えました。しかし、一位の天使も、一人の聖人もこの仕事を助けてはいませんでした。その背後に武装した残忍な人々の席があり、笑いながらこう言っている人影を見ました。「できるだけしっかり建てろ。我々がそれを地面に引き倒してやる」(この項続く)(2013年11月16日)

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福者アンナ・カタリナ・エンメリック

福者アンナ・カタリナ・エンメリックの預言2

1820年6月12日 幻視

私は聖なる皇帝ヘンリー*を幻視しました。私は夜大きな教会に彼がただ一人主祭壇にひざまづいているのを見ました。また聖母が御ひとりで下りてこられるのを見ました。彼女は祭壇に、白いリンネルに覆われた赤い布地をかけられました。また宝石のちりばめられた聖書をおかれました。ローソクと御聖体のランプに灯をつけられます。そこへ司祭の服をお召しになった救い主がお出になります。カリスとそれを覆う布を持っておられます。2位の天使が主に仕え、2位の天使が後に従っています。祭壇の鈴はありませんが、瓶は置いてありました。ブドー酒は血のように赤く、水も置かれています。

御ミサは短いものでした。最後に聖ヨハネの福音書は読まれませんでした。御ミサが終わると、聖母はヘンリーの所へお出になり、手をお延ばしになって彼の純潔を認めると申されました。1位の天使がヤコブのように彼に手をふれると、ヘンリーは激痛を覚え、その日よりびっこをひくようになりました。


*終わりのとき、これから現れサタンの軍隊と戦うことになると預言されている偉大なる君主のことで、フランスから現れると預言されている。

1820年8月より10月までの幻視

私は多くの殉教者を見ています。--今ではなく、未来のです。私は秘密結社(フリーメイソン)が、無残にも偉大な教会を傷つけるのを見ています。彼らのそばに海から昇ってきた恐ろしい獣を見ました。世界中の信心深い善良な人々、特に聖職者が圧迫され、投獄されます。私は彼らが殉教者となるのだと感じています。

教会がほとんど破壊され、至聖所と祭壇だけが残った時、私は秘密結社(フリーメイソン)の人間が獣と共に教会に入ってくるのを見ました。そこで彼らは子連れの上品な婦人*を見て、その人に恐怖を与えようとしましたが、獣は一歩も前進できません。獣は彼女に喰いつこうとするかのように、首をつき出しますが、彼女は向きを変えて(祭壇に向かって)お辞儀をします。彼女の頭が地にふれると、獣が再び海に向かって突進し、敵は大混乱のうちに逃げ出すのを見ました。それから私は遠方に大部隊が近づいてくるのを見ました。前面に一人の人*が白馬に乗っているのが見えます。捕虜が解放されてこの人と合流します。敵は全て追われ、教会は迅速に建て直され、以前のより立派となりました。

*黙示録の婦人すなわち聖母を表していると思われる。
*偉大なる君主(皇帝ヘンリー)!?

1820年8月10日 幻視

私は非常な苦しみの中にある教皇*を見ました。彼は以前と違った離宮に、極く少数の友人と住んでおられます。私は偽りの教会が進展してゆき、人々に怖ろしい影響を与えるのを見ています。教皇と教会は悲しみの極みにありますから、私たちは昼も夜も天主に嘆願せねばなりません。

昨夜、私はローマに連れて行かれましたが、聖父(教皇)は悲しみの内にまだ(彼に対してなされた)危険な要求から逃げて隠れておられました。彼は弱弱しく、疲れ果てておいでになりますが、悲しみと気苦労と(長い)お祈りのためです。今はもう数人の人しか信頼できる人がおりません。これが隠れておられる主な理由です。しかしまだおそばに老人ではありますが、素朴で信仰の篤い司祭がおります。彼は教皇の友人であり、彼ら*もこの人を移動する必要もないと考えました。しかしながらこの人は天主より多くの聖寵を受けている方でした。彼は多くの事を見聞きして、忠実に教皇にお知らせしています。私は、教皇のおそば近くにおりながら裏切っている高位聖職者や、邪悪な人々を、そのために祈っておられる教皇にお知らせしたいと思いました。

*この教皇がベネヂィクト16世であられることはこの預言から明白だと思われる。
*彼らとは、反教皇とその周囲の人々を指すと思われる。(この項続く)(2011年11月18日)

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ガブリエル・フォン・マックスによる肖像画

福者アンナ・カタリナ・エンメリックの預言3

1820年8月25日 幻視

昨夜どうやってかはわかりませんが、私はローマに連れて行かれました。私はサンタ・マリア・マジョーレの大聖堂近くにおりました。そして私は教皇のおすがたがどこにももう見られないので、また街のうわさのために心配し、悲しんでいる多くの人々を見ました。この人々は教会の扉が開いていることは期待していないようで、ただ外で祈っていたいだけのように見えます。個人ごとに内なる声に導かれてここへ集まったのでした。私は内部におりましたので教会の扉を開けました。彼らは扉が開いたのでびっくり仰天しながら入ってきました。礼拝は何も行われていなかったのですが、御聖体のランプはついていました。人びとは全く平和にお祈りをささげました。

私は聖母のお姿を見ました。聖母は苦しみは非常に大きくなるだろうと言われます。そしてこの人々に両手を伸ばしてできるだけ長く(ゆっくり)主祷文を三回熱心に唱えねばならぬと申されます。これが救い主が十字架上で彼らのためにお祈りになったなさり方なのです。彼らは夜中12時に起きて教会にやってきて、このやり方で祈らなければなりません。何事よりも、まず、暗闇が教会より去るように祈るべきです。
また聖母は非常に多くの事をお話くださいましたが、それらを書くのは苦痛です。そして、たった一人の司祭が、使徒がなさったようなやり方で価値あるミサ聖祭をおささげしたら、来るべき災害を全てさけることができると申されました。
これらの人々は御出現は見ていませんが、何かしら超自然的なものに心を動かされたようで、聖母が両手を開いて祈らねばならぬと言われたとき、ただちに彼らは全員手をあげました。この人々は善良で信心深い人々です。

*この 幻視は、大警告の前に教皇がローマを去る時の幻視と思われます。その時には教会の扉は閉ざされているのです。
*冒頭右の絵は19世紀後半・オ―ストラリアの画家ガブリエル・フォン・マックスによるエンメリックの肖像画。

1820年9月10日 幻視

私は聖ペトロ大聖堂を見ました。至聖所と主祭壇をのぞいては、全て壊されていました。武具に身を固めた聖ミカエルが下りてこられました。彼は沢山の入って来ようとする悪い司祭たち(bad pastors)*を剣で止め、脅しております。破壊された教会の一部は軽い木材で囲まれたので祭儀はとり行われるようになりました。それから全世界から、司祭や平信徒がやってきて(破壊者は重い基礎の石を動かすことはできなかったので)石壁を再び積みなおしています。(この項続く)(2013年11月19日)

*この悪い司祭たちとは、反教皇側の司祭たちのことと思われる。

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エンメリックの生家

福者アンナ・カタリナ・エンメリックの預言4

1820年9月27日 幻視

私はまことに嘆かわしいことを見ました。人びとは教会の中で、賭け事をし、飲食し、話をしているのです。彼らは女性を連れてきて、あらゆる忌み嫌われることをしでかしています。司祭はそれらすべてを許し、大いなる不敬を以てミサをとり行っています。若干の人々は信仰が篤く、ほんとうに一握りの人々だけが健全な心を持っているのが見えました。


1821年6月1日 幻視

私が見た幻の中で最も奇妙なのは、長い司教の行列です。彼らの思想や話は、私には彼らの口から出るイメージを通してわかりました。彼らの宗教に対する欠点は彼らの外形の不恰好さでわかります。若干の人々は頭の代わりに暗い雲で身体だけの姿です。他の人々は頭があるだけで、胴体や心はあつい水蒸気に包まれています。ある人々はビっこで、ある人々は身体がまひしています。また他の人々は眠りこけたり、よろめいたりしています。ほとんど全ての司教はこんな姿ですが、ほんの少数の人は健全です。

*司教や司祭たちのために祈ってほしいと御出現でたびたび、天の方々は私たちに願われております。(2013年11月22日)

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伝記によると、エンメリックは幼少の頃より数多くの神秘的体験をしていた。自分の守護の天使や聖母が現れた。聖母がエンメリックを愛しており、ずっと守り続けると確約してくれたこと、また聖母が幼いイエズスを連れてきてエンメリックと遊ばせたこと、大勢の聖人たちが現れ、彼女の作った花の輪を受けとったことなどが語られている。この頃、彼女は特殊な能力を授かっていた。薬草や毒草を見分ける能力だった。彼女は16歳ときから修道院に入ることを望んでいた。しかし病弱と持参金の少なさからどの修道院も受け入れてくれなかった。
28歳の時、1802年聖アウグスチノ修道院に入ることができた。それはオルガニストを探していた修道院が親友のクララ・ソエントゲンのオルガニストの才能を認め、クララとエンメリックを同時に受け入れてくれなければクララを入れないと主張するクララの父親のソエントゲン氏に妥協し受け入れたからだった。当時は修道院が持参金なしで受け入れることはありえなかった。神秘的体験がたびたびあるエンメリックは周囲に反感を持たれたが、エンメリックは肉体的に過度に弱っていたにもかかわらず、元気に忠実に修道院での職務を遂行した。
エンメリックがいばらの冠の聖痕を受けたのは1798年で、修道院に入る4年前であるとエンメリックが語っている。エンメリックが教会で祈っていると、イエズス・キリストが現れ、花の冠といばらの冠をもち、どちらを選ぶか聞かれた。エンメリックがいばらの冠を選ぶとイエズス・キリストはいばらの冠を彼女の頭に載せた。エンメリックがその冠を両手で押しかぶると、イエズスの姿は消えた。その直後に頭部、特に額とこめかみに激痛が走り、翌日以降はいばらの冠の跡のような傷が現れた。その傷は時に血を流した。
修道院では聖痕については秘密にしていた。流血に気づいたシスターは一人だけでそのシスターは秘密を守り通した。
修道院時代からエンメリックは超自然的な力で、病人やけが人を治癒できたことは有名で、修道院に医師にかかることができない貧しい人や医師に見放された人々が押し掛けた。それも他のシスターたちの反発を受けることになった。だが、反感を持っていたシスターたちも病気になると、エンメリックの治癒力の世話になった。(続く)

エンメリックの部屋の再現

福者アンナ・カタリナ・エンメリックの伝記2

カタリナは、北ドイツ、ウエストファーレン地方、コースフェルト近郊にある農村で1774年9月8日生まれ、9人兄弟姉妹(男6人女3人)の5番目、最初の女の子として育った。…

1811年ウエストファリア国王の命令で、デュルメンの聖アウグスチノ修道院は閉鎖された。エンメリックは他のシスターたちと共に修道院を出た。
当初はフランスから逃れてデュルメンに住んでいたアベ・ランベール神父の家政婦となっていたが、すぐに病気となってしまい、その司祭の世話により、ある貧しい未亡人の家に身を寄せた。1813年、寝たきりになりベットの上で生涯を送ることとなった。エンメリックが胸に十字架の形の聖痕を受けたのはこの頃で、エンメリックは長い間いばらの冠の聖痕による痛みに耐えていたが、さらに胸の十字の聖痕の痛みそして、両手、両足、右わき腹に聖痕を受けることとなった。その聖痕の特徴として、いくつかのものは毎週水曜日、そしてその他のものは金曜日に血をふきだすことが記録に残されている。
病床にあっても、エンメリックは人々への愛情にあふれ、助けが必要な人々を助けようとした。貧しい子供たちのために服を縫うことで、子供たちを救えることを非常に喜んだ。彼女の病床には多くの訪問客が訪れ、明らかに彼女には迷惑であったにもかかわらず、彼女は親切にそれらの人々を受け入れ、それらの人々に励ましと慰めの言葉を与えた。エンメリックは、自分の苦しみを人々の救済のための賜物であると考えた。彼女はこう言っていた。

私を、過ちや弱さのために間違った道を歩んでいる人々の罪の償いとしていただけるよう、神から特別な賜物をいただけるように、いつも願っています。

1819年、詩人クレメンス・ブレンターノと出会い、最初の訪問いらい彼は5年間デュルメンに滞在し1819年からエンメリックが死ぬ1824年までエンメリックが見た幻視の内容を聞き取り、記録した。それはエンメリックの死後約10年後にエンメリックの著作として出版した(邦題:『キリストの御受難を幻に見て』)。
エンメリックの死後、ブレンターノは他の原稿も準備したが、ブレンターノが1842年に死亡したため、同書はその後1852年にミュンヘンで出版された。(邦題:『聖家族を幻に見て』)

*右上の写真は、デュㇽメン・ドイツ:聖十字架教会内部にあるエンメリックの部屋の再現。 家具類はオリジナル。

エフェソス近郊にある聖母マリアの家



聖母マリアの家

エンメリックがヴィジョンとして見た『聖家族を幻に見て』(光明社)には、聖母マリアがエフェソスの近郊にある丘に暮らしていたとの記述があった。1881年フランスのジュリアン・ゴヤット神父が聖母マリアの家に関する記述からその遺跡を発見した。その後マリー・デ・ゴンセ修道女がゴヤット神父が発見した場所に聖母の家があることを主張。ほかの二人の司祭も遺跡の発見を確認した。
1896年に教皇レオ13世が訪問し、1951年に教皇ピオ12世はこの家が聖なる場所であると宣言した。教皇ヨハネ23世は、後にこれを永久宣言とした。パウロ6世が1967年、ヨハネ・パウロ2世が1979年、そして教皇べネディクト16世が2006年にこの家を訪れ、この家を聖地とみなした。

*右上の写真は、エフェソス近郊にある聖母の家。現在は礼拝堂となっている。トルコ(2013年11月24日)(『Wikipedia』より)

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