終末の時―大警告・再臨におけるカトリックの伝統と正統な信仰を求めて

聖母の巡礼地

聖母の巡礼地

聖ペトロの鎖

ローマの思い出

昨日の「鎖の聖ペテロ」の記事で思い出しましたが、この雪の聖母の大聖堂(サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂)へ、私は1993年6月に訪れていました。この大聖堂は真夏に雪が降るという奇蹟で、聖母がその聖堂を立てる場所を、ある貴族の夫婦とその時の教皇リべリウスに夢で知らせたという不思議ないきさつがあって建てられた大聖堂です。

記憶では、サンタマリア・マジョーレ大聖堂に聖ペテロの鎖はあったと思っていたのですが、調べると現在はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にその鎖は保存されています。ガラスの大きなケースに入っていました。(2014年8月2日)

転載:
「エスクィリーノの丘のなかでも、ひときわ高いチスピオ(キスピウス)の頂のあたりにそれは建てられた。名高い伝説がある。三五二年に、時の教皇リベリウスが聖母のお告げを夢に見たという。「雪の降ったところに教会を建てよ」と。そして、真夏であったにもかかわらず、丘の上へ雪が降った。その奇蹟以来、雪の聖母マリア大聖堂とも呼ばれ、八月五日が祝日になっている。しかし、標高はせいぜい五五メートルである。(参考文献)『ローマ散策』p.80~81」
http://homepage2.nifty.com/hashim/roma/818/maggiore.html

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黒い聖母

聖母の土曜日3

今日は晴れています。洗濯日和です。桜のことばかり気にしていて、桃の木がいつの間にか満開になっていました。この桃の木は、4年くらい前に植えました。もう3メートル近い背丈(?)です。最初の年に8~10個くらいの桃を収穫しとてもおいしかった。次の年5,6個の収穫で味が少し落ちていました。その次の年には収穫ゼロでした。今まで肥料を全くあげなかったので、今年から天然由来の液肥を上げ始めました。ミツバチがいなくて実がならないのか、肥料が足りないのか今年わかります。

今日は聖母に捧げられた土曜日です。調べると、ポーランドのヤスナ・ゴラの聖母の祝日です。同時に日本の津和野の聖母の祝日です。ほかに4つの称号の聖母の日でもあります。津和野の聖母については、カテゴリの『聖母の巡礼地』の中の『五月は』に津和野の聖母と巡礼地の記事があります。ですから今日はポーランドのヤスナ・ゴラの聖母について書きます。この黒い聖母のイコンは、チェストホーヴァの聖母とも呼ばれています。この聖母に巡礼したことがありました。1993年6月にポーランドの幻視者L・Bの要請で当時活動していた世界中の幻視者たちがポーランドの黙想会にあつまりました。日本からN神父他私を含めて3人の幻視者とプロモーター一人と通訳の6人が参加しました。フランスから一人の幻視者とその霊的指導者の司祭が参加。米国からは、二人の幻視者FとTが参加。カナダから霊的指導司祭一人と修道女の幻視者一人、と修道女一人の3人が参加しました。ポーランドからは2人の幻視者、ドイツから一人の女性幻視者が参加して、修道院に1週間ほど寝泊まりして、記憶では三、四日間ほどの黙想会がありました。その黙想会の合間にバスで、ポーランドの巡礼地を回りました。そのときチェストホーヴァのヤスナ・ゴラ修道院に安置されている黒い聖母に巡礼したのでした。聖母のイコンは宝石で美しく飾られていました。このイコンの前の祭壇でN神父たちがトリエントミサを捧げたのを思い出しました。この黒い聖母は奇蹟を起こし、ポーランドを助けたという言い伝えがあり、ポーランドの元后という称号もお持ちです。

下記にその歴史を貼り付けます。

ヤスナ・グラ(Jasna Gora)の聖母は、古都クラクフ近郊の聖地チェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院に納められている、イエス・キリストを抱いたマリア像の絵画(イコン)。顔が修道院に火が点けられた時の煤で黒くなっているので、「黒い聖母」の異名があり、一般にはこの呼び名で呼ばれている。
1382年、このイコンはヤスナ・グラ修道院を建てたオポーレ公ヴワディスワフによってエルサレムからチェンストホーヴァに到着、修道院に安置された。1655年、スウェーデン軍がポーランドを侵略した時(大洪水時代)、ワルシャワやクラクフまでもが占領されたが、ヤスナ・グラ修道院だけはスウェーデン軍の攻勢に屈せず、「黒い聖母」がもたらした奇跡だと語り継がれている。
8月15日の聖母マリアの被昇天の祝日には、ポーランド全土から徒歩で、また世界各地からも信者が訪れる。
フス戦争後期にフス派に傷付けられたことから、以降ポーランドに於ける愛国心の象徴とされ、カトリック教派の拡大や被占領時の独立運動、民主化などに影響を与えた。
ポーランドは大多数がカトリック教会信徒であり、このイコンもカトリック教会で有名であるが、同イコンはポーランド正教会でも崇敬される。『チェンストホヴァの神の母』(ポーランド語: Matka Boska Częstochowska, 教会スラヴ語: Ченстоховская икона Божией Матери)とも呼ばれ、これを記憶する聖堂(チェンストホヴァの神の母イコン聖堂)がある。
この記事はWikepediaより。
(2014年5月3日)

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ニコラオ・永原ケイアンの殉教の図

聖なる丘―聖母出現


長崎西坂の丘には不思議なエピソードがあります。聖母出現です。イエズス会のイルマン(修道者)二コラオ・永原ケイアンの殉教の時のことです。
1633年7月31日、かれは残酷な刑である穴吊りによって殉教しました。穴吊りという刑は、体を縄で頑丈に縛りつけ、逆さにして穴の中に腰まで入れて蓋をし、飲まず食わずのまま暗闇に放置する。脳溢血ですぐに死なないようにこめかみに小さな穴をあけておく、という残酷で恐ろしい刑です。
その際に不思議なことがあり、その奇蹟的な出来事を複数(十人)の証人がマカオでの公式殉教調査で証言しています。
それらの証言によるとと、聖母が穴の中に出現したこと、穴の中に泉が湧いたこと、頑丈に縛られていたイルマンの縄がほどけ『聖母がといてくださった』、「ここにわたしと一緒にマリア様がおられます』、聖母が水を下さり飲んだので『もう水はいりません』とイルマンが言ったことなどを、日本語が堪能な長崎在住の複数のポルトガル人がその殉教の場に立ち会い、聞いたことを証言しているのです。ケイアンは時に穴の中から説教をしたが、役人たちは耳をふさいで聞こうとはしませんでした。7月31日聖イグナチオの祝日に、イルマンは聖母の連祷を唱えながら亡くなりました。その遺体は火葬され、灰は長崎湾にまかれました。ですから西坂の丘は二十六聖人の殉教地というだけではなく聖母の出現地でもあるのです。(2014年3月4日)
*写真は『イエズス会の殉教者』タンネル著より

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秋田の聖母像からの涙
イスラエルの聖母像から油の涙

聖母の涙


昨日In Deepというブログで、聖母像から油の涙が流れているという記事を読みました。それで20年前の1984年にオーストラリアの女性の幻視者の家でガラスの写真ケースに入っていた聖母像の写真から油が流れ出て癒しになるとその町で大騒ぎになったことを思い出しました。
また1974年、秋田市湯沢台の聖体奉仕会の聖母像から涙が流れテレビ局が涙が流れる瞬間を撮り、テレビで流され、日本中が当時驚いたのです。私は2000年になるまでに7回くらい秋田に巡礼しました。6回目の巡礼の時、1998年くらいのころでしたが、聖母像の左手に黒い十字架がありました。彫られているように見えました。幻視ではなく実際に彫られ、黒の色をその彫られた跡に入れたように見えました。一人の修道女に聞きましたが、そのような十字架はないという反応でした。ですから、やはり幻視だったのです。
今から思うと、その後秋田をめぐる問題―現代主義と伝統の間に起こったーの予兆だったのかもしれません。まわりまわってきた秋田の問題に関する文書を読んだ記憶があります。聖母の御出現をうけたシスター笹川が、その後秋田の修道院から出られたという話も聞きました。

秋田の聖母のメッセージを紹介します。

 (1)第1のメッセージ:1973年7月6日(初金曜日)            
 教皇、司教、司祭のためにたくさん祈って下さい。
             
 (2)第2のメッセージ:1973年8月3日(初金曜日)            
 世の多くの人は、主を悲しませています。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれ償う霊魂を、御子と共に望んでおります。
 祈り、苦業、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りをやわらげることができます。      
 貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して、祈って下さい。

 (3)第3のメッセージ:
1973年10月13日(ファチマ太陽の奇跡の日)
 前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしております。
 そのとき、大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くが死に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時、私たちに残る武器は、ロザリオと御子の残された印だけです。 毎日ロザリオの祈りを唱えてください。

 ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中までは入り込み、枢機卿は枢機卿、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇、教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に、悪魔は、御子に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることが私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、罪のゆるしはなくなるでしょう。
ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。私によりすがる者は助けられるでしょう



上記の左の写真は下記のブログ『In Deep』より、右の写真は『秋田の聖母マリア』より。(2014年2月22日)
http://oka-jp.seesaa.net/article/371888541.html

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ガラバンダルの聖母

ガラバンダル…聖母の出現地


スペインの小さな村ガラバンダルに聖母の有名な御出現がありました。1961年のことです。4人の少女たちの名は、マリ・クルス(11歳)、マリ・ロリ(12歳)、ヤシンタ(12歳)、コンチータ(12歳)…1961年6月18日、彼女たちがいつものようにロザリオをとなえ終わると、天使が現れ、次のように言いました。『次の日曜日にカルメルの聖母があなたたちに現れるでしょう。』大天使聖ミカエルの出現でした。次の日曜日7月2日に山へ4人の子供が行きましたが、数えきれないほど大勢の人々も集まりました。その中には11人の司祭と何人かの医者がいました。
夕方6時になると聖母が大天使聖ミカエルともう1位の天使を伴って出現されました。聖母は純白に輝く服を召されて、その上に空のように青いマントをはおられ、右手にはスカプラリオをお持ちでした。
次の日には、聖母は幼いイエズスをお抱きになられて現れました。…聖母はそれから何回もあらわれ、10月18日には特別なメッセージを伝えることを約束されました。
それは7月4日のメッセージのなかでしたが、聖母は子供たちにそれまでたくさんの犠牲と償いをするように、また御聖体のイエズスを訪問して慰めるように、お勧めになりました。聖母のメッセージは、大いに回心して善人にならないかぎり、大きな天罰が来るだろうという警告でした。この警告は教会の司祭たちによって発表を禁じられました。…ご出現のたびに聖母は子供たちが不思議に思うほど司祭のために祈るようにと、お願いになりました。…

第一のメッセージの内容

・たくさんの犠牲と、償いをしなければならない。
・聖体訪問をもっとたびたびしなければならない。
しかし、それよりも先に、非常に(ママ)善人とならなければならない。
・杯は、もう溢れようとしている。もし、改心しなければ、大きな罰がやってくる


以上は、1961年10月18日付で、4名の子供たちのサインで書かれたもので、第一のメッセージといわれています。(この項続く)(『天の母の警告』より抜粋・要約)(2014年2月12日)


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村の教会
教会の内部

ガラバンダル…聖母の出現地2


聖母からの第2のメッセージです。

「第2のメッセージは、1965年6月18日付で、子供たちの中のひとりコンチータ・ゴンザレスが書いていて、サインしたものです。
メッセージをうけたのは、その6か月前でしたが、聖母のゆるしをうけて、この時はじめて発表されました。このメッセージは、大天使聖ミカエルを通じて与えられました。その発表された内容は、次の通りです。

『天使は、聖母のメッセージを伝えて言いました。[1961年10月18日のわたしのメッセージは、世界に知らせるべきものだったのに、知らせなかったから、私は、もう一つのメッセージを与えますが、これが最後です。

・多くの司祭、司教、カルディナㇽたちは、滅びの道を歩んでいて、多くの人の霊魂を共に滅びへと導いています。
・御聖体はますます無視されてます。
・人類の上に迫っている神のおん憤りをさけるように、大きな努力を払わねばなりません。
・もし、素直な心で、ゆるしを願うなら、神はお赦しになります。
・あなたたちの母であるわたしは、聖ミカエルを通じて”心を改めなさい”と勧めます。これは、もはや、最後の忠告です。
・あなたたちを、これほど愛していればこそ、私は、あなたたちが滅ぶのを望みません。
・素直な心で祈りなさい。わたしは願いを聞き入れるつもりですから。
・あなたたちは、もっと犠牲をささげねばなりません。
・とくにイエズスの御受難を黙想しなさい
。』

*ガラバンダルに関する記事は、カテゴリの中の「大警告と大奇跡」、「ガラバンダルの預言」の中にも情報があります。(2014年2月17日)



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フランス・ルルドの巡礼地

ルルド
聖母の現れた洞窟





本日2月11日はルルドでの聖母御出現の祝日です。聖ベルナデッタへの聖母の出現は、1858年2月11日のことです。7月16日まで合計18回ご出現されました。1862年に、約2年の調査により教会は公式に聖母出現を認めました。
ルルドの町は、ピレネー山脈のふもと、フランスの南西部オート・ピレネー県の小さな町です。世界的な巡礼地となっています。奇蹟の治癒がルルドの泉から湧き出る水によって数多く起こっています。

ルルドの主要なメッセージは、私は無原罪の御孕りと名乗られたことと罪びとの改心のために祈るようにと言われたことです。10数年前、ルルドについての分厚い本を読みました。例によって我が家では、本がなかなか見つかりませんが、印象に残っているのは、当時の司教様がたが聖母の御出現を認めず、次々病気になったり、目が見えなくなったり亡くなったりしていたという箇所でした。記憶では10名以上のそのような司教がおられたのでした。一方平信徒である民衆はこぞって聖母出現に感激していました。そういえばラテン語の格言に、Vox popli vox Dei『民の声は神の声』ということばがあります。(2014年2月11日)

*写真はウィキペディアより。

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ローザミスティカ

風邪で…ローザミスティカの御出現


やはり昨日から風邪をひいたようです。昨日はうとうとしたり本を読んだり、ショウガ蕩と風邪のサプリメントを飲み多少のんびりと過ごしました。昼ごろ天気が回復してとても暖かくなりました。クロちゃんがやってきました。チョコとクロちゃんは鼻と鼻をつけて挨拶します。おなか一杯食べたクロちゃんは玄関のわきで、日向ぼっこをしばらくしてから帰りました。クロちゃんは全身黒い毛皮で太陽の熱を集めれるので暑いのか、半分日陰の場所での日向ぼっこでした。
今年元旦に聖母がおっしゃった日本の歴史とは、日本の近代・現代史のことだろうと考え、ネットで数冊取り寄せました*。今日の話はそれらの本についてではなく、先日書いた『天の母の警告』の話です。その中にイタリア、モンテキアリでの聖母ローザ・ミスティカの出現についての言及がありました。うちにはローザミスティカの御像があります。20年くらい前にいただいたもので、私は毎日次の祈りを唱えています。

薔薇の奇蹟の聖母よ、霊魂と肉体のすべての悪より救い給え。アーメン

この聖母の巡礼地でたくさんの奇蹟が起こったのです。御像は手に入らなくともローザミスティカの写真を祭壇に飾ればよいと思います。

「…北部イタリアのモンテキャり町でも、1947年から1976年にわたって,度重なる出現がありました。…ここの最初の出現は、町の教会に集まった何千人もの人の目に見えました。それから間もなく三つの大きな奇蹟が行われ、その後も、次々とたくさんの奇蹟が行われました。それにしても、出現はおもにピエリーナ・ジリという若い女性に与えられました。
これらの出現は、町の司祭たちからも、当地出身の司教たちからもその真実性が認められました。教皇ピオ12世も1951年にピエリーナ・ジリを特別に祝福して、『あなたに与えられたこの素晴らしい恵みをよくいかすように』という励ましの言葉をかけられました。
最初のころの出現のひとつに、聖母の左右に二人の子どもが現れました。聖母ご自身の言葉でそれが、ヤシンタとフランシスコであることがわかりました。すなわちファチマの3人の牧童の中ですでに帰天した二人の子どもです。このことからみても、この出現とメッセージがファチマでのそれの続きであることがわかります。
聖母は、ロザリオの祈りをするようにと励まされ、大天使聖ミカエルのご保護を願うようにすすめられました。そして、これは、『教会がかつてなかった大変な危機に直面しているからです』と、そのわけを説明されました。
その後、すなわち1975年になると、特別司祭たちのために祈るよう願われたのです。そのとき、聖母はひじょうに悲しげな様子をされて、こう加えられました。『ごらんのように、教会の責任ある思い役目を任せられた聖職者が、人間的なプライドに心を奪われて、正しい道をわきまえなくなりました。彼らは、母であるわたしを教会から追い出し、信者の心を私から引き離そうとしています。しかし、神であるわたしの子イエズス・キリストは、新しい光を輝かせるでしょう…どれほど大勢の人々が滅びの道を走っていくことでしょう』と。
聖母は、こうおっしゃってから、祈りと、犠牲と、償いを…」と願われました。(『天の母の警告』より抜粋)

*マリア・イマクラータのメッセージ参照

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無題

ラ・サレットの秘密

昨日の「時の終り2…」の記事に関連してラ・サレットの預言29の翻訳を下記に載せます。ラ・サレットの預言は、1864年9月19日にメラニー(14歳)とマクシマン(11歳)の牧童に聖母が出現されメッセージを与えられました。フランスのラ・サレットには、聖堂(バジリカ)が建てられ、聖母の巡礼地となっています。世界中から巡礼者たちがやってきます。ラ・サレットのメッセージは、時の終りに起こること、暗黒の三日間やローマについての恐るべき内容です。段落30には、ローマについて聖母が言われているので、次回に翻訳します。(2014年1月22日)

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画像の説明

キューバの奇蹟的な聖母像の出現


友人からカトリックのカレンダーが、キューバのお土産として一昨日届きました。カストロのキューバに、なぜカトリックカレンダーが…?調べてみると、カストロ以前にキューバはカトリック教国のスペインに400年も統治されていたのです。またキューバは「カリブ海の真珠」と呼ばれ観光地でもあったのでした。それで古いカトリック教会やカテドラル(司教座)が残っており、信仰や文化にカトリック的な要素が色濃く残っているというわけでした。カレンダーの表紙にはイエズスの聖心の画像があり、毎月聖人たちの絵と説明がのっているようでした。説明はスペイン語なので、文面は理解できませんが…絵は伝統的でうつくしいものです。
キューバには、福者ヨハネ・パウロⅡ世とべネディクト16世と2代にわたって教皇が訪問されています。当時べネディクト16世は、エルコブレの聖母発見の400周年記念行事に参加するためにキューバへ行かれると発表されていました。「エルコブレの聖母」とは1612年キューバの南端の県の一つ、サンティアゴ・デ・クーバの北岸にある二ぺ湾で発見された木像で布衣装に幼子を抱えられていた聖母像です。その木像が『わたしはここの住人を保護するマリアです』*と話されたとの言い伝えがあり、サンチィアゴ・デ・クーパの聖堂に安置されました。
1916年教皇ベネディクト15世がこの奇蹟的な聖母像をキューバの保護者として宣言しました。1936年に安置してあるサンティアゴ・デ・クーバの聖堂の司教が、国の守護者にふさわしく聖母像に冠を載せ、聖堂は教皇庁の許可を得て大聖堂(バジリカ)に格上げしました。(2014年1月10日)

*上記の写真は褐色の肌色の、エルコブレの聖母像、『ヤスコヴィッチのぽれぽれBLOG』より
*聖母像がのせられていた板にそう書かれていたという説もあります。

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奇跡の聖母の御絵

12月12日は…

12月12日は、メキシコ、ガアダルぺの聖母の祝日です。毎日のミサ典書には「スペインがメキシコを占領してまもなく、1531年12月9日、テぺヤク山のガァダルぺで、ファン・ディエゴというインディアンの改宗者に出現し給うた聖母マリアを記念する。のちにこの地に大聖堂が造築され、巡礼地となった。
1877年,ガァダルぺの聖母は、南アメリカ全土、フィリピン、特にメキシコの守護者と宣言された。」

(「毎日のミサ典書」)

右の聖母の絵は、奇蹟の御絵です。その説明を「白い祈祷書」から引用します。「1531年12月9日、祝されし乙女はメキシコ市近郊のテぺヤックの丘で、ミサに向かう途中の57歳のキリスト教徒のインデアンに現れた。天の調べと光の中で、聖母は愛のこもった親しみをもってファン・ディエゴに話かけられた。聖母は、彼女のために教会を建てるように望み、そして、5回目の出現で、彼女が真実出現したという教区の司教に対する証として薔薇を用意し(それは冬だった)、彼女自らがかれの外套に飾り付けた。ファン・ディエゴが司教の面前で外套を開くと、そのサボテンの繊維で織った粗目の布地の上に、聖母の奇蹟の像が描かれているのが発見された。この御絵は,現在メキシコ市のバジりカ聖堂に展示されている。この絵と布地が450年以上ものあいだにわたって保存されてきたことに対する科学的説明はなされていない。ファン・ディエゴに対する聖母の言葉は、単純さをもって彼女に近づく者への、彼女の保護と憐れみを示している。」

約束

「聞き、それをあなたの心に染み込ませなさい。私の愛する小さな息子よ、どんなときにも落胆したり失望したりしてはいけません。何に対しても顔色を変えたり心を動揺させたりしてはなりません。またどんな病気や苦しみも、心配事や苦痛を恐れてはなりません。私はここにあなたの母としているではありませんか。あなたは私の影と保護のもとにあるのではありませんか。私はあなたの命の泉ではないのですか。あなたは私の腕に抱かれているのではありませんか。あなたに必要なことが他にありますか」「理解しなさい、私の愛する息子よ、私が、私たちがその中に生きる天地の創造主である真実の神の永遠の母であるということを。私が愛と憐れみ、救いと保護をもたらすため、ここに私を記念して聖堂が建てられることが私の緊急な願いです。私を愛し、信頼し、私に助けを求めるあなたの同胞にとって、私は愛と憐れみの母なのです。私は彼らの嘆きに耳を傾け、そのすべての悲しみと苦難に慰めを与えましょう。」

聖母の、ファン・ディエゴへの御言葉


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ファチマの聖地

ファチマの聖母

10月13日は…

1917年10月13日は、ポルトガルのファチマで大きな奇蹟が起こった日です。1917年5月13日から始まった聖母の出現の6回目で、公の最後の出現の日でした。この日、聖母の御出現にあずかろうと集まった4万人とも7万人とも伝えられている人びとの服は雨でみなぐっしょりと濡れてました。ところが、太陽の奇蹟が始まって、太陽が回転したり、急降下を繰り返し、その猛烈な熱で10分間ほどの奇蹟が終わった時、彼らの服はみな渇いていました。その場にいた人たちは、無神論者も含めてみな回心しました。民衆を解散させようとしてその場に来ていた山岳警備隊の人たちもただちに回心しました。
ファチマの秘密とは、第一が地獄の示現であり、第二は天罰の警告(戦争)とそれをさける方法―ロシアの汚れなき御心への奉献と初土曜日の聖体拝領*―です。第三の秘密は、つい最近マリア・デバインマースィのメッセージで明らかにされました。(そのメッセージはトップページの『ファチマの預言』の項に収録されています。)二人の教皇―名誉教皇べネデクト16世と反教皇(偽預言者とも天は呼んでおられます)のことです。

カナダの思い出

幼きイエズスの聖テレジア

 昨日書いた、聖フィリッポ・ベニッィが創立した聖母下僕修道会がきっかけで、1993年の夏カナダで出合った聖母下僕修道女会の修道女たちのことを思い出しました。私にとっては2回目のカナダへの旅行でした。
 1993年8月15日の聖母の被昇天祭の前後1週間くらいの日程で、聖母の御要請で世界中の当時活動していた幻視者たちと霊的指導司祭たちが、黙想会と聖母への奉献のためカナダ、モントリオールから車で2時間かかる修道会に集まったのでした。米国から3人、イギリスから2人、カナダから一人、ポーランドから一人、オ-ストラリアから3人、日本から3人、このほかに多くのメッセージの関係者が日本からカナダから、米国から集まりました。
 多くの人々の中に、ニューヨークから来ていた聖母下僕修道女会の修道女が4,5人来ていたのです。その中の1番若い修道女が幼きイエズスの聖テレジアにそっくりでした。話を聞こうと日本人の幻視者たちが彼女のまわりに集まりましたが、彼女はフランス語しか話せませんでした。全身黒の修道女服でした。彼女たちは、たどたどしい英語で、自分たちが聖母下僕修道女会であると説明してくれたのです。あまりに聖テレジアにそっくりなので、日本人たちは私を含めてちょっぴり興奮したのです。その修道女たちには、今から思うと失礼だったかもしれません。そういえば、そのモントリオールの修道会の創立者の司祭が幼きイエズスの聖テレジアの親戚だと聞きました。その司祭のあごのあたりが聖テレジアにそっくりでした。

 本日は 使徒、聖バルトロメオの2級大祝日です。「キリストは、この使徒の真面目な心を、称賛された(ヨハネ1章)。この使徒は、アルメニアで宣教し、その地で、皮をはがれて殉教した。
 殉教録によると、後に信徒が、その遺骸を、リパリ島に移し、その地からべネベントにはこんだ。オット3世皇帝の時、ローマに移され、現在は聖バルトロメオ大聖堂に安置されている。(『毎日のミサ典書』)(2013年8月24日)


ニューヨーク、ベイサイドの思い出

最近また米国のヴェロニカ・ルーケンのメッセージを読む機会がありました。1982年にヴェロニカ・ルーケンのメッセージを初めて読んで、アメリカからメッセージ集を取り寄せました。茶色のスカプラリオや聖母のメダイなども同時に取り寄せました。当時ヴェロニカ・ルーケンは偉大な預言者と言われていました。そのメッセージには、大警告、ふたつの彗星、贖罪の球、大天罰、暗黒 の三日間, イエズス・キリストの再臨など当時としては目を見張るものがありました。8年後1990年カナダに行く用ができたので、ニューヨークにたち寄る計画を立てました。その頃、ヴェロニカ・ルーケンのご出現には、ワーカーがらみの問題が起こっていた頃でした。ともかくご出現は終わりに近く、当時はメッセージもあまりなかったという記憶です。天は、たとえ幻視者が落ちても出現地は落ちない、と言われていたのでニューヨークのベイサイド、フラッシイングメドウ公園内の出現地(聖母出現の巡礼地)に寄ってみることにしたのでした。家族も一緒だったので、また当時ニューヨークの危険性が喧伝されていたので、ホテルで車をチャーターしてもらい、ホテルからまっすぐ出現地へ向かいました。車がついたところは、森のなかの場所でコンクリートが張ってあり、広くてどちらかというと殺風景なところでした。そこでロザリオを祈りました。そうしていると、ブルーのベレーをかむった一人の男性が現れました。ブルーのベレーは、ベイサイドのワーカーのしるしでした。ロザリオを持ち祈っていたので、その男性は私に話しかけてきたのでしょう。私はたどたどしい英語で、日本から来たこと、メッセージを翻訳(自分の翻訳と資料の転載)して人々に渡していることなどを話しました。すると、突然その男の人が片膝をついて、私の手にキスをしました。突然の出来事にびっくりしました。いま思うに、その人は感謝の気持ちを表したのだと思います。その後のことはよく覚えていません。その男性と別れてから、自由の女神を見物したと思いますが、海の上の観光船からだったと思います。チャーターした車には、かえってもらい、私たちはニューヨークの安全なところをちょっと散歩し、タクシーでホテルへ帰りました。外へは出たくなかったので、食事はホテル内のレストランで済ませました。
ヴェロニカ・ルーケンのメッセージで衝撃的だったのは、教皇パウロ6世の偽物がいるというメッセージでした。本物と偽物の写真も公表されていました。当時とんでもないことがバチカン内部で起こっていたのです。(2013年6月11日)


ファチマの記念日

本日は第一回のファチマでの聖母の御出現の記念日です。ファチマのメッセージについてはほとんどの方が御存じだと思われますが、その第三の預言の抜粋を載せます。

「二十世紀後半において、神の大いなる試練が人類の上にくだるだろう。
民は神の恩恵を足蹴にし、各地において秩序が乱れる。
国家の最高部をサタンが支配し、世相はサタンによって導かれる。
教会の上層部にもサタンが入り込む。特にサタンは学者の頭を混乱させる。
全人類の大半を数分のうちに滅ぼすほどの威力をもつ武器が造りだされる。
枢機卿は枢機卿に、司教は司教に戦いを挑む。
民族の指導者らは権力をふりかざす。
神の罰は洪水の時よりも悲惨である。偉大な者も小さき者も同じく滅びる。
二十世紀後半において大いなる戦乱が起こる。
腐ったものは堕ちる。堕ちたものは、もう支える力がない。
火と煙が降り、大洋の水は蒸気のように沸き上がる。
その艱難によって地上の多くのものは破壊され、無数の人が滅びる。生き残った者は死者をねたむ程の艱難に襲われる。
もしも最後の時が近づいていて人類が自ら改心しなければ、世の苦しみは深刻化する。
小さき者も善き者も悪しき者も、牧者はその信徒とともに、世の支配者はその民とともに滅びていく。
いたるところで死が勝利の歌をうたう。荒れ狂った者が凱歌をあげる。彼らは唯一の支配者サタンの配下である。
これがすべて終わったのち、世は神に帰り、聖母は、御子イエズスに従った者の心をよび起こす。
キリストは、単に信じるのみでなく、キリストのために公けの場所でその勝利を勇敢に宣言する人を求めている。
よき信徒、よき司祭は、彼らの兄弟から軽蔑され、攻撃されるだろう。
隣人に向かって真理の言葉を告げる者のみ真の愛をもっている。」

ファチマで聖母の御出現を受けたルチアの言葉(要約)も重要です。
「・祈りと苦行をもって向かわなければ、ロシアがいましめのムチとなるであろう。
 ・犠牲と祈り、これこそ霊魂を救うもっとも効果的な手段である。
 ・聖母はふたつの剣のあいだに立っておられる。すなわちキリストが振り下ろそうと
  されている剣と、人々の無関心、かたくなな心の剣との間に。
 ・最後の武器はロザリオである。
 ・ロザリオと犠牲、このふたつがすべてを決する。個人的にも社会的にもロザリオを持って戦い、[ 無原罪の聖母]に対する信心をあつくしなければならない。」
これらのメッセージから、ロザリオと犠牲、無原罪の聖母への信心の三つが非常に重要であることがわかります。

ファチマは、ポルトガル中部の丘陵地帯コバ・ダ・イリヤの近くにあり、1917年5月13日から、10月13日まで6回にわたって聖母が3人の子供たち(ルチア、ヤシンタ、フランシスコ)に現れました。ファチマは年間数百万人の訪れる聖母 の巡礼地です。(2013年5月13日)


五月は


五月は聖母月です。五月は聖母に捧げられた月なのです。公教会には聖母に捧げられた多くの美しい聖歌があります。昨日の5月3日は、聖母がキリシタンに出現された乙女峠の記念の日でした。この日には、乙女峠まつりがあるのです。乙女峠は津和野にあります。記憶では、2,3回訪ねたことがあります。津和野カトリック教会は古くて由緒正しい、美しい教会でした。内部は畳敷きだったという記憶があります。
乙女峠へ上ると、小さなチャペルがあり、その内部にはとても美しい聖母のご像がありました。ファチマの聖母像だったと記憶しています。津和野に長崎浦上の信者153名が幽閉収容され真冬に拷問を受けました。

聖母マリアのご出現を受けたのは安太郎という若者で明治2年真冬の1月10日雪のなか、三尺牢という立つこともことも寝ることもできない狭い牢に裸で入れられ満足に食べ物をあたえられず,衰弱死しました。夜ごとに、青い服の聖母が現れ、安太郎に話をしてくれたので、苦しくないと仲間の甚三郎に話したのです。
五歳のモリちゃんは、役人にお菓子を見せられ「キリストは嫌い」と言ったらお菓子をあげると言われましたが、「天国の味がもっといい」とことわり、衰弱死しました。乙女峠は36人の殉教者のキリシタン殉教地です。聖母の出現地でもあります。(2013年5月4日)


富士の聖母


無原罪の聖母像のすぐ隣の八重桜が咲き始めました。その隣のソメイヨシノはまだ満開です。今日は晴れたので、花々がいっそう美しく見えます。でも花曇りの日も、あたりが霞がかかったようで幻想的で美しいのです。

昨日の夕方、聖母像のところまで散歩しました。どこからともなくチョコがあらわれ、桜の木に駆け上りました。のぼったはいいけれど降りれなくてにゃ―にゃー鳴きます。のぼった瞬間は得意げなのですが…。それで手を伸ばしてだっこして下ろしました。

富士の聖母の巡礼地は、富士スバルラインの2合目と3合目の中間にあります。富士の聖母の聖地へ上る階段の前には広い駐車場があります。道を渡ると富士の聖母と書かれた標識があります。そこから急な長い階段を上っていくと大きな聖母像が見えてきます。キリスト信者の助け…扶助者聖母のご像です。富士の聖母の巡礼地にはこの二十五年の間に十数回巡礼しました。個人的に十三回くらい、大型バスでみなといっしょに7回くらいです。二〇〇三年五月の巡礼のときには、この扶助者聖母の巡礼地をつくられたE神父と一緒に巡礼しました。聖母像の前の祭壇でおミサが捧げられました。非常に素晴らしいお説教でした。後で録音しておくのだったと後悔しました。(2013年5月3日 )


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