終末の時―大警告・再臨におけるカトリックの伝統と正統な信仰を求めて

天草四朗

天草四朗

追記


今日の記事『天草四朗時貞、真実の預言者』の項に、「3名の方に」、と書きましたが4冊別に見つかったので合計7名の方にお譲りできることになりました。(2015年2月24日)

カテゴリ→天草四朗


無題

天草四朗時貞、真実の預言者


今日はちょっといつもと違うことを書きます。先日、白い祈祷書を探し回った時に『天草四朗時貞、真実の預言者』の在庫が数冊見つかりました。
アマゾンでこの古書がいくらなのか調べて驚きました。4冊のみの在庫で1冊が1万2000円から2万円以上の値段がついていました(2015年2月23日現在)。12年前に自費出版した本です。天のインスピレーションがあり、表表紙と裏表紙のデザインも自分でしました。1年半近くを取材に費やし,国内外をまわりその後半年くらい閉じこもって書き上げたのでした。2部を書くために、フィリピンのマニラのサンアウグスチン教会(修道院)にまで行きました。しかしながら、結局2部は未完成のままです。無我夢中で苦しい日々だったという記憶があります。

少し汚れてはいますが、新品のまま古びた本を半額の500円で、ほしい方に譲ります。郵送料は800円ですので、合計1300円です。
3冊限定です。つまり3人の方にお譲りします。
メールで2月26日までにお申し込みください。もし人数が多い場合はくじ引きにします。こちらから連絡がいったら、コーナーストーンの口座にお振込みください。関東のワーカーにいったん送り、そこからまたご自宅へ送ります。
もうすでに持っている方はご遠慮ください。(2015年2月24日)


郵便振替:00160-4-721277
口座名称:コーナー・ストーン


また、この本に関する感想文のいくつかを紹介します。ネットショッピングではほとんどの書店で在庫切れとなっているので、レビューもほとんどないのですが、以下の文章が見つかりました。皆さん、好意的です。

華章
‏@kashow0914
天草四郎時貞の本は碧天舎の「天草四郎時貞、真実の預言者」てのが面白かったな。編集さんがすんごい自由に書かせてて、若干ファンタジーも入ってたw逆に司馬遼太郎の「街道をゆく」の島原天草編は徹底して宗教的な問題じゃなかったってゆってたな。他の著者の書籍でも司馬さん系スタンス。


次のものは「Megu-くだらない日記」からのものです。

天草四郎時貞、真実の預言者
窪塚洋介さんの「魔界転生」を観て以来、どうにも天草四郎のことが気にる・・
物語の内容よりもあの冒頭の島原の乱で四郎の首が斬られるシーンが印象に残っているからでしょうか

今回、Amazonで取り寄せた本は今倉真理さんという方が天草四郎の「謎」に取り組んだノンフィクションです
最近読んだ本で一番熱中してしまったかも
しかも、読んでいるうちにこの本が第一部であり、第二部は執筆中らしいことが判明して、やられたーと思いました。はやく読みたい

島原の乱の総大将、天草四郎は当時16歳
農民一揆の総大将として祭り上げられた若者とする見方があるそうですが
ご自身がカソリックの洗礼を受けておられる著者は同じく16歳で天の声に導かれてフランスを救ったジャンヌ・ダルクと比較しています

一級史料にものこされている数々の不思議な出来事
島原の乱が幕府に、後の日本に与えた影響などなど
教科書には載っていない歴史のとらえ方がわたしには驚きの連続でした

ロマンティック☆なんて言ってられないとちょっと反省
機会があったら原城跡に行ってみたいと思いました

megu


次は、「amazonn.co.jp プライム」
のカスタマーレビューから。

形式: 単行本
約400年前の島原の乱、勝てば官軍負ければ賊軍と言われる日本の歴史の中で、この島原の乱だけは他と何かが違うと感じてきた
 「天草四郎時貞、真実の預言者」は、現世利益の信仰・この世でのゴリヤクを求める日本的な価値観しか持たない私にとって、目の覚めるような衝撃の一冊である
 天国・パライソに入るため、信仰を守るため、女性の名誉を守るため、何よりも心の自由を守るため、心まで奴隷にならないために彼等は戦った
 自由に生きる事のできる現代の日本の中では想像もできない状況であったはずだが、しかし豊かな社会であるはずの現代において、私達は心の自由を失っていないだろうか。人生を考えるとき金で考えてはいないか。命より金のほうが大事と思ってはいないか。私達は本当に自由なのか?金の奴隷ではないのか?… 
天草四郎時貞とその群れの人々 自由と誇りを守りぬいた幸せな人々に賛辞を送りたい




次のものは感想文というより、ある研究家の方の論文の中でこの本が言及されていました。

島原の乱でただ一人生き残った男・絵師山田右衛門作の生涯(08・6・21)家来裕隆(S22 理)
(略)

山田右衛門作の生い立ち
山田右衛門作については様々な記録がありどれが正しいのか明らかでなく、謎に包まれた部分もあります
たとえば吉川弘文館の『国史大辞典』には「生没年不詳。江戸時代前期の洋風画家。暦元年(一六五五)歿説がある。 」と記されております。また『島原一揆西戎征伐記』と題する写本が後年発見されましたが、それによれば右衛門作は出雲の尼子勝久の子孫で、流浪の末肥前の国に隠れ住んだとされております。そうかと思えば『天草征伐記』によれば「元来天草の島上津の地土名主にて、大村の長として大福者にして学問道徳の男、文章の達者」と記されています。 『原城記事』では長崎生れで西洋画をよくし、松倉氏に仕え口之津村に住んだことになっており、まさに諸説紛々というところです

このような資料の山の中に一つ注目すべき記録があります。今倉真理氏の『天草四郎時貞真実の預言者』の中で「一五八八年のセミナリヨ(神学校)の名簿のなかに、山田と名乗る生徒が三人いるのだが、リノ山田(十六歳)というのが嶋原出身となっている。その頃セミナリヨ(第二次有馬セミナリヨ)では八名が油絵を習って非常に上達し、 〝色も形も原画さながら〟と一五九三年のペドロ・ゴメスの報告にある。島原の有馬氏に仕えていた山田右衛門作がこのリノ山田である可能性は非常に高いといえる。 」とされておられます。この記述は非常に信憑性は高いと思われます
もしこれが正しければ山田右衛門作は一五八八年に十六歳でしたから一五七二年(元亀三年)年に生れ、当時島原の領主であった有馬氏に仕え、セミナリヨでイエズス会の神父から南蛮絵(西洋画)の技法を習得し、高い評価を得るに至ったものと思われます
慶長十九年(一六一四)六月(大坂冬の陣の四か月前)領主有馬直純が日向の県(あがた)城へ移封される前、二年前に発せられたキリシタン禁教令に従って棄教し、キリシタン迫害を強化しました。この時山田右衛門作を含め多くの家臣が日向に移らず有馬に残りました
その後島原の新しい城主となった松倉重政も口之津に住む山田右衛門作をお抱え絵師としました。この意味で先に引用した『原城記事』の記事も誤りではないことになります。島原の乱で九死に一生を得た右衛門作が『国史大辞典』の記載のとおり明暦元年(一六五五)に亡くなったとすれば享年八十三歳となり、他の資料とほぼ合致します
ここで付け加えたいのは島原の乱で原城に籠城したとき、天草四郎直属の親衛隊五百の指揮を委せられたことでもお分かりのように、山田右衛門作は単なる絵師ではなく,『天草征伐記』の記述にもあったように「学問道徳の男、文章の達者」でもあったと思われます。落城後捕われてからの供述書である『山田右衛門作口書写』でもそれが偲ばれます

(略)

(元・石原産業(株)常務取締役)
(平成二十年六月、三高同窓会『大阪舎密クラブ』での講話に資料追加、補筆)






天草四朗陣中旗

天草四朗時貞2-奇蹟の子の謎


天草四朗時貞の陣中旗は,ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界3大聖旗の一つであり、本渡市立天草切支丹館に所蔵されています。通常はレプリカが展示されています。陣中旗には、古ポルトガル語で次の祈りが書かれています。

いとも貴き御聖体の秘跡ほめ尊まれさせ給え

1993年頃、どの幻視者だったかもう忘れてしまったのですが、次のようなメッセージがありました。
日本を守り保護する天の軍隊の指揮をするリーダーは、天草四朗時貞である。*
このメッセージを聞いたとき、なぜ天草四朗なのか当時はわかりませんでした。10年後天草四朗の本を書くために膨大な本と史料を収集し、読んで書き上げ、はじめて理解できました。水野家の史料等に『天下を残すために立て』、『キリシタンを広めなければ、天下(国)が残らない』と天の出現で言われたと書いてあったからです。天草四朗時貞と3万7千人の原城での犠牲は、その後の日本を守るために捧げられたのです。それは天からの要請でした。なんと日本は特別な国なのでしょうか。
その貴い犠牲によって日本は守られてきました。西欧列強の侵略と支配から、共産主義から日本は守られてきたのです。

ジャンヌ・ダルクと同じように、かれは二つの預言によってその出生を預言されて生まれてきた奇蹟の子でした。天草四朗時貞は、多くの誤解によって曲解されてきました。
歴史家や学者たちにカトリック的な思考がないためでした。それでも多くの人たちに愛されてきた天草四朗時貞は、多くの史料によって天の人(預言者)であったことが証明されています。詳細はカテゴリの中の「天草四朗時貞、真実の預言者」を参照してください。(2014年3月8日)

*このメッセージは今は見つかりませんが、見つかり次第紹介します。

*上記の写真は、グーグル画像集より

カテゴリ→天草四朗

天草四朗像

天草四朗時貞1―殉教の日


「寛永15年2月28日、松平伊豆守の指揮する幕府軍12万5千人の総攻撃により原城に籠城していた約3万7千人が殉教した。ただ一人この悲惨な現場から生き延びた者がいた。山田右衛門作である。彼はユダのように裏切り者となったが、ユダのように自殺せずに、生き証人となり、天草四朗時貞の謎を解明する手がかりを後世に残したのだ。
南蛮絵師山田右衛門作は、幕府によって取り調べられ『山田右衛門作口書』を残した。そのおかげで天草四朗についての正確な、多くの情報が残されたのだ。山田右衛門作は、イエズス会の修道士司祭マルコス・フェラロ師が、寛永15年よりさかのぼること26年前に日本より追放される直前に残した、預言書『末鑑』(すえかがみ)に、天草四朗の出生が預言されていたと証言している。奇蹟の子天草四朗時貞についてである。」(『天草四朗時貞、真実の預言者』より要約抜粋)

話は現代に戻りますが、1993年当時、日本には突然、世界でも類を見ないほど多くの幻視者が出現しました。頭文字でかぞえると、T,M,R,M,S, R,K, S,A, Iと一時期に10人ものヴィジョナリィ(幻視者)があらわれ、そのうちのほとんどが天草四朗についてのメッセージを受けました。当時は外国からの幻視者、預言者の来日も多くあり、かれらにも天草四朗についてのメッセージがあったのです。私には聖母から「天草四朗についての本を書きなさい」という指示がありました。その天からの指示が真実のことなのかどうか、何人かの幻視者に確認を取りました。天からの指示であるとの答えを得たとはいえ、すぐに本が書けるものではありません。その時点から資料の探索が始まりました。都合がよいことに天草富岡在住の幻視者Sさんが天草への巡礼を5、6回くらい(1年に2,3回)企画しました。そのバス巡礼に参加して資料を集め始めました。九州の熊本空港まで飛行機で行き、そこからバスで原城や富岡や天草の史料館を巡礼したのです。そして九州だけではなく、2002年にマニラまで資料を探しに行きました。そして、聖母からの指示から10年後の2003年に、ようやく『天草四朗時貞、真実の預言者』を書き上げることができたのです。

なぜ天草四朗が現代の幻視者たちに現れ、メッセージを残したのか…。そこには重大な謎が隠されていたのでした。(この項続く)(2014年2月28日)

*上記の写真は、グーグル画像集より

カテゴリ→天草四朗



a:3560 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional