終末の時―大警告・再臨におけるカトリックの伝統と正統な信仰を求めて

公教要理

公教要理

聖体拝領について2


舌で聖体拝領を司祭から拒否された時の対応策を書いた記事(2015年に5月20日)ですが、一つ書き忘れていた対応策がありました。

それは、

司教団が公けにしている下記の指針を下のURLから印刷し、常に持ち運び、舌での聖体拝領を拒否されるような状況になった時、司祭に見せるということです。(「拝領者自身が、聖別されたパンを手で受けるか口で受けるかを選ぶことができます」と明確に書かれています)もちろん、ミサ中は無理でしょう。
時と場所を考えなければなりませんが、一方的に間違ったことを強制されるわけにはいきませんから、単純にこうした対応策がまず第一にとられるべきです。しかし誰もがこのような対応策ができるとは思われません。殉教者の精神、魂が必要です。しかし、すべての人には、真実を言うべき時があると思います。すべてのことに時があります。こうした対応策がすべての人ができるわけではありませんが、真実を言うことは他の霊魂の救いとなることにもなるのです。

殉教者の取り次ぎを願い、聖母マリアの御加護を願って行動に移すべきです。

しかし、こうした行動をとれない人は、日本の公教会のため、迷った司祭たちのために祈りに祈りましょう。それも必要な、重要なことです。(2015年5月25日)

「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」(2014年)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/20141130.pdf

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聖体拝領について



「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」(2014年)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/20141130.pdf

ユーザーの方から、所属する小教区で、教会として聖体拝領の方法を手ですることにするとの報せを司祭から受けたという内容のメールをいただきました。

先ず、上記に張ったURLで「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」(2014年)が読めます。その日本の司教団の公表した指針の中に、「拝領者自身が、聖別されたパンを手で受けるか口で受けるかを選ぶことができます」と明確に書かれています。ですから、小教区司祭が信徒に手による聖体拝領を強制することなどできないのです。

跪いて拝領するのを立ってするのに譲るとしても、舌による拝領の仕方は譲わけにはいきません。

この件に関しては、小教区、司祭、そして信徒自身のもろもろの条件が関わってきますから、一概に対応方法は言えませんが、一例として、

聖体拝領のときに強制するような司祭がおられたなら、穏やかに、敬意を失わずに「舌で拝領します」とか「舌でお願いします」とか言えばよいでしょう。それでも司祭が手による拝領を強要する態度に出たなら、静かに御聖体に一礼して自分の席に帰り、霊的聖体拝領をすればよいでしょう。こうして御聖体を擁護することになります。真実を擁護する人間は、罵倒され嘲られるのです。覚悟は必要です。

または、

御ミサだけにあずかり、席で霊的聖体拝領の祈りをするか、家に留まり公教会祈祷文の「ミサにあずかるを得ざる時の祈り」を祈り、霊的聖体拝領の祈りをするという対応方法もあります。それぞれの教会での立場がありますから、祈り黙想して自分なりの対応方法を選ぶしかありません。

聖ヨゼフに勇気を願って毎日祈らなければなりません。

MDMのメッセージによれば、これから地上の教会から御聖体がなくなります。つまり有効なミサというものが消えてなくなるのです。しかし、有効なミサが近くに、あるいはちょっと離れたところにでもある内は、できるだけ与るべきです。また、レムントチャーチ、つまり隠れた真の教会を見出すことができる人もいるでしょう。(以前の私、マリア・イマクラータへの聖母のメッセージで「焼け跡に一本の花が咲いているように、聖なる司祭がいる」という内容が語られたことがあります)

真にキリストに従う信徒が冠婚葬祭を地元の教会でやることはいずれ出来なくなります。割り切って教会の外でやるしかありません。司祭の不在の時の葬儀の祈りもあります。それは別の機会にアップします。

また、近くで(カトリック教会の)トリエントミサをやっている所がある人は御一報くださればここで紹介できます。また近くでなくとも御存じの方はお知らせください。(2015年5月20日)

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地獄について…

ある方から地獄に落ちる霊魂についてのメールをいただきました。それで、ネットで検索したところ、「地獄について」という下記の記事を見つけました。

http://hoarun.web.fc2.com/hell.html

その中に、<霊魂の罪の汚れ>についての短い記事があり、小罪の恐ろしさについて書かれてありました。以前聖母は小さな罪についても告解するように言われていました。小さな嘘を(常習的に)ついている人は、地獄あるいは煉獄に行ってひどく後悔することになるでしょう。小罪に鈍感であれば、「大罪に道を開くことになる」のです。聖女はたった一つの嘘(少罪)の恐ろしさについて語っているのです!

霊魂の罪の汚れ

我らの主はジェノアの聖カタリナに、天主のしもべの小罪の忌々しきを御示しになられた。
その非常な恐ろしさは即座に聖女を死に至らしむるほどであり、聖女は自らの霊魂の、これらの汚れを見た。

「その幻視は、わずかな過ちに関するもののみであり、わずかな時間だけ続きましたが、このわずかに続いたもので、私に死を引き起こす事、もしくは石の本体を塵に変えてしまう事さえ充分でした。」

「もし我々に地獄の門を開くことが出来て、その中に閉じ込められている全ての霊魂を解放する事、そして煉獄から全ての霊魂を解き放つ事が出来ましても、一つの小さな嘘(小罪)によってこの全ての者に、我々はそのような許しを与える事は出来ないでしょう。」

(2015年2月10日)

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最後の審判

黙想―審判

「四終(死、審判、地獄、天国)」について、死と地獄についての黙想はすでに書きました。(カテゴリの『公教要理』に収録)聖フランシスコ・サレジオの『信心生活入門』から、今日は「審判」の黙想を写します。

準備 (1)天主のみ前にい出て、
  
(2)天主の汝に語り給わんことを祈れ。
省察(1)最後に、天主が定め給うた、この世の終末が来たのち、また、あまたのしるしと恐ろしい前兆とのために、人びとが驚愕と,教父とによって、肝を冷やしたその後、洪水(大水)のような火焔(かえん)は、地の面を灰と化し、今、その上に見る一もつも免れないであろう。
(2)この火焔と、雷ずちとの洪水の後に、万民は地より起きて、大天使の声にしたがい、ヨザファトの谷に集うであろう。しかし、いかなる相違ぞ.あるものは、栄誉と,光明とのからだを有し、あるものは醜悪、奇怪なるからだを衆目にさらすのである。
(3)無上の審判者の来たり給う時、なべての天使、聖人らは、主をめぐりて、み前には,善人には恩寵のしるし、悪人には正義のしるしなる、日よりも輝く十字架が立つ。
(4)この無上の審判者の、恐るべき宣告は、即座に実行されて、善人と悪人とを、右と左とにわかち給う。これは、この二群が、再度相混ずる事なき、永遠の分離である。
(5)分離行われて、良心の書簡の開かるるや、悪人の邪念と、かれらの天主に対して抱きたる軽蔑、また、他方に善人の苦業と、かれらが天主より受けたる聖寵の功徳とは、隠るるところなく知れわたるであろう。ああ天主よ、悪人にはいかなる悔恨、善人にはいかなる慰安ぞ。
(6)悪人に対する最後の宣告を黙想せよ。『呪われたるものよ、悪魔とその伴侶のために備えられたる永遠の火に行け』恐るべきこの御ことばの意味をはかれ。『行け』とのことばは、天主が罪人を、永遠にその御面(おんおもて)より追い払う捨て去りの御ことばである。天主は、かれらを『呪われたるものよ』と呼び給う。ああわが霊魂よ、いかなる呪詛(のろい)ぞ。これこそ、あらゆる悪を含む万事の呪詛(のろい)にして、すべての時間と、永劫とにわたるつきざる呪詛(のろい)である。『永遠の火に』と。ああ、わが心、この大いなる永遠を思え。刑罰のつきざる永遠の、いかに恐るべきかな。
(7)善人に対する宣告を黙想せよ。『来よ』と審判者はのたもう。ああ、これぞ、天主のわれらを招き、慈愛の御懐に迎え給う。救霊の至福なるみことばである。『わが父に祝せられたるものよ。』ああ、あらゆる祝福を含む、愛すべき祝福よ。『世界開闢(かいびゃく)より汝らのため備えられたる国を得よ』。ああ、いかなる恩寵ぞ。この国のつきる時はないのである。
感激と決心 (1)わが霊魂は、この思いに戦慄せよ。ああ天主、天柱・地軸も、恐怖にわななくこの日に、われをなんびとかわれを安んじ得るぞ。
(2)恐るべきこの日に当たりて、ひとり汝の滅亡のもとたるべき、汝の罪を捨てよ。
(3)かの日に裁かれざらんがために、私は、今日(こんにち)自らを裁こう。かの恐るべき日に、審判者の宣告を避けるために,私は,あらかじめ、己(おの)が良心を検査し、われを罰し、われを訴え、われを矯正しよう。私は告白して、必要なる訓戒をきくであろう。云々(うんぬん)。
結末 (1)かの日に、汝を安全ならしむる方法と贖罪(しょくざい)の余裕とを給いし、天主に感謝せよ。
(2)そのために、汝の心を、天主に捧げよ。
(3)これを実行するために要する聖寵を賜らんことを祈れ。主祷文・天使祝詞。
花束*をつくれ。


*信心の花束とも、霊的花束ともいう。祈りの贈り物であり、たいてい小さな紙片に主祷文1回、天使祝詞1回、ロザリオ1環とか書き、これを霊的花束とみなしリボンで結んだり、きれいな小箱に入れたりして送り先の人に届けて祈るもの。上記の場合は天への贈り物である。

(2014年9月13日)

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免償について
人間は、地上に生きている間に神の御前に罪を犯します。罪を犯すとその罪の罰(罪の償い)が生じます。
罪には大罪と小罪の二種類があります。大罪の罰を無限の罰、小罪の罰を有限の罰といいます。無限の罰を背負ったまま死ぬと人は地獄へ行き、有限の罰を背負ったまま死ぬと煉獄へゆきます。地獄は永遠ですが、煉獄は苦しみ(浄め=償い)を果たした後、天国へ行きます。
カトリック信徒は告解の秘跡(司祭に罪の告白をする)によって、罪が赦されます。大罪も小罪も許されます。罪が許されても罰(罪の償い)は残っています。ですから告白場で司祭は必ず「償いとしてこれこれの祈りを唱えなさい」と言ってから、罪の赦しを信徒に与えます。しかし、その司祭から命ぜられた祈りだけでは許された罪の償いとしては十分ではないのが普通で、信徒は生活の中で様々に償いをしなければなりません。マリア・ディバインマースィへのメッセージで、イエズス様は、一日少なくとも5分の償いをしなさいと言われました。それは自分の罪の償いとして5分祈ったり、あるいは様々なことを、たとえば皿洗いとか掃除を自分の罪の償いとして捧げるということを意味しています。

償いが残ったまま死ぬと、霊魂は煉獄に行かねばなりません。地上に生きている間に自発的に償いをした方が楽なのです。天はメッセージで、煉獄の苦しみに比べれば地上のどんな苦しみもそよ風です、とおっしゃったことがあります。

この赦された罪に対する償いが免除されるということがあります。それを「免償」と言います。
免償には二種類―全免償と部分免償があります。全免償とは、今まで許された罪その残っている償いのすべてが免除されます。部分免償はその一部が免除されます。
免償は、教会の定めたある行為―祈りや巡礼、あるいはある集会への参加などを果たすと与えられます。
しかし、全免償の場合はその行為を果たすことと、プラス「告白、聖体拝領、教皇の意向に従って祈る」ことが必要です。つまり、全免償が与えられる行為をする日にこの三つを果たす必要があります。告白は大罪を犯さない限りその前後2週間の間にすればよいと言われています。教皇の意向に従う祈りとは、教皇の意向のために普通、「主祷文(天にまします)」「天使祝詞(めでたし)」「栄唱(ねがわくは)」を一回づつ祈りますが、他の祈りでもよいのです。 

この終わりの時、天は未信者のために特別な恵みを付与されました。これからの教会の崩壊と、罪びとを救う天の憐みによる賜物で、神の敵はこの恵みを、教会の秘跡以外の罪の赦しなどあり得ないと言って、マリア・ディバインマースィーのミッション攻撃の材料とするでしょうが、教会が変貌を遂げた後で、未信者の大罪を犯した人間が、他にどのようにして希望をつなぐことが可能でしょう。
その賜物とは、十字軍の祈り第24番です。この祈りをノヴェナとして祈れば、大罪が許され、全免償が得られます。(マリア・ディバインマースィのメッセージ2012年3月9日参照)(2014年8月29日)

四終…死

今回は死についての黙想です。
カトリック信者は天国を目指して地上を歩んでいます。聖人(聖フランシスコ・サレジオ)の導きにしたがって歩むことを選択した霊魂は幸いです。黙想に慣れていない人は静かな場所でゆっくりと思いめぐらすことから始めてよいのです。天国には黙想がまったくできなかった聖人もいるそうですから、黙想ができなくとも失望することはありません.大聖テレジアは、(確か記憶では)黙想ができない人は霊的読書をしてその箇所を思いめぐらすように指導していました。

準備
(1)天主の御前に出でて、
(2)天主の聖寵の御助けを求めよ。
(3)重病に伏して、臨終の床に横たわり、癒ゆべき望み絶えたりと想像せよ。

省察
(1)汝の死について、確実なことは、なに一つないことを考えよ。ああ、わが霊魂よ、汝は、1日、このからだを逃れ出でねばならぬ。冬であろうか、夏であろうか、いつであろうか。市街(まち)の中か、田舎であろうか。昼の間か、夜の間であろうか。突然であろうか、または、なにか予告があるだろうか。病気で死ぬのであろうか。または、けがで死ぬのであろうか。告白の暇(いとま)はあるであろうか。否か。汝の指導霊父は、その時、汝を助けてくれるであろうか。われらは、すべて、これらについて,何一つ知らない。確実なことは、ただ、われらは死なねばならぬということと、死はわれらの予定よりも、いつも、早く来るということだけである。
(2)この時、汝にとって、この世界は終り、もはや、存在しないのである。汝の眼前(がんぜん)に、万事が転倒する。その時には歓楽も、虚栄も、世間が与える喜びも、空虚(うつろ)なる愛情も、われらにとっては、幻のごとく、また、雲煙(うんえん)に異ならぬ。禍なるかな、私はいかにくだらぬ、かげのような事柄のために、天主にそむいたのであろう。そうして、この時、はじめて、われらが、虚無のために、天主を捨てたことを悟るであろう。信心と善業とは、これに反して、望ましく、快いものとして汝の眼に映るであろう。なにゆえ私は、この美しく、快い道をたどらなかったか。この際には、以前、小さく思われた罪も、大きな山のように見え、汝の信心は、ごく小さく見えるであろう。
(3)汝の霊魂が、地上の世界に告げねばならぬ、大きな,かつ、いたましい訣別(けつべつ)を想像せよ。霊魂は、財宝、虚栄・空虚(むな)しき伴侶・歓楽・遊戯・友人・知己・父母・子孫・夫妻、すなわち、すべての被造物に別離を告げる。そうして、最後に、その肉体と別れてしまえば、残るのは、青白く、憔悴した、醜い、腐敗しかかった死体である。
(4)人びとは、忙しげに、この死体を担ぎ出して、地に葬る。そののちには、かつて汝が他人に対してしてたように、世の人々は、汝を思い出すこともなく、汝を記憶することもないのである.『天主よ、願わくは、彼の霊魂に平安を与えたまえ』といって、万事はそれで終わるのである。ああ、死よ、なぜ冷酷にして、仮借するところなきぞ。
(5)肉身を去れば、霊魂は、右か、左か、その道を選ばねばならぬ。汝の霊魂はどの方に行き、どの道を選ぶであろうか。それは、結局、この世で歩み始めた道を、歩み続けるにすぎないのである。

感激と決心
(1)天主に祈り、御手(おんて)のうちに汝の身を託せよ。主よ、かの恐るべき日に、主のご保護のもとに我をおき給え。たとえ、わが全生涯が、悲しみと苦悩とにみつるとも、かの日のみは願わくは幸多き、主の祝福の日たらしめ給え。
(2)世間を軽蔑せよ。世間よ、いつ、汝と別れねばならないか、知らないから、汝に執着しない。愛する友よ、親しき伴侶よ、ただ、永遠に続けることのできる聖なる友情のみをもって、汝らを愛することを許せよ。なにゆえ私は、1日(じつ)、別離をいたし、結合を破らねばならぬような友情をもって、汝らと結ぼうぞ。
(3)私は、この日のために用意し、幸福に、この来世への旅立ちをするに、必要な準備をしようと思う。私は、全力を尽くして、わが良心を安んじ、これこれの欠点をなおそうと決心する。

結末 
天主の汝に賜いし、以上の決心について感謝し、これを天主に捧げ、御子の御死去の功徳によりて、汝の死を幸いならしめ給わんことを祈れ。聖母と、諸聖人との御助(おんたす)けを願え。
主祷文・天使祝詞
信心の花束をつくれ。(2014年8月12日)

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夏・台風…四終

昨日も今日も家の中は24度、外はもっと低い温度…おそらく21度くらいです。その2,3日前には、36度と新聞にありましたから、この地方だけではなく日本全国が夏の光で熱せられていたのです。今年の夏はとても暑い。でも急に秋の涼しさです。台風が来るとたいてい気温は上がるものと覚えていましたが、今回は違ったようです。この1週間気圧の配置や強風のせいで日本上空には、pm2.5はまったくなく日本の図上では真っ白でした。台風は大雨と災害をもたらしますが、毎回pm2.5に関しては日本によい事をもたらします。台風の前後5日くらいづつ10日あまり日本の上空にはpm2.5は中国から流れては来ません。イエズス・キリストはどんな小さな自然現象にも意味がある。小さな水の滴にも…台風にも…とマリア・ワルトルタの本の中でおっしゃっています。今起こっている多くの自然災害は、メッセージによれば子供たちを神に立ち返らせるために、または罪の罰や償いのために起こっているのです。

先週、黙想で地獄について掲載しました。公共要理に『四終』というものがあります。死、審判、地獄、天国の四つのことです。これらについて黙想することがカトリック信者にはすすめられています。毎月の静修と呼ばれ、毎月1日を『よい死の練習』に当てます。今週は死についての黙想を『信心生活入門』から引用したいと思っています。多少、手が不自由なこともあって、打ち込むのに時間がかかります。明日か明後日にはアップできると思います。
(2014年8月11日)

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小罪について

昨日の『癒しのクリーム』についての記事に出てきましたが今日は小罪について、です。ここ30年くらいカトリック教会では「公教要理」を洗礼前の勉強で教えなくなっているという傾向があります。25年前のわたしの洗礼の勉強も聖書のクラスでした。ほとんどのカトリック信者は30年くらい前から公共要理は自分で本を購入し学ぶしかなかったのです。よい本に出合えばラッキーですが、現在よい本はほとんど絶版になっています。『修得生活入門』という本も今や絶版です。カトリック図書館や古本屋にしかありません。

その『修徳生活入門』から小罪の部分を下記に引用します。

小罪とは、なにか?
小罪とは、・小さなことがらについて、・あるいは、重大な事柄であっても、はっきり意識せず、或いは完全に承諾しないで、神のおきてにそむくことである。
心から小罪をさけるように努めなければならないのは、なぜか?
それは、
・小罪も神に対する侮辱であり、私たちの上に神の罰を招き、
・霊的恵みを少なくさせ、
・しだいに大罪へみちびくからである。

完全な意識をもって犯される小罪はとくに注意しなければならない。そして大罪をさけるもっとも有益な方法は、小罪をも犯すまいという堅固な決意である。次にあげる小罪の九つの内容は、とくに霊的進歩を妨げるものである。

1、悪意をもって他人を邪推し、けいべつすること。
2、特定の人にたいして反感や憎悪の念をいだくこと。
3、他人の欠点を暴き、でたらめな中傷で隣人の平和と友情をみだすこと。
4、怠惰から信心行をおこたり、また意識的に気を散らしながら祈ること。
5、みだらな感情や考えに意識的にふけったり、また,このような事柄にたいして無神経なること。
6、うぬぼれて他人をけいべつし、みだりに優越感をいだくこと。
7、準備を怠り、また不まじめな態度で秘跡にあずかること。
8、反対や失敗に出あうとき、忍耐をかき、それらがみ摂理からのものであることを考えようともしないこと。
9、知る権利のある人に自分の良心の状態をかくすこと。修徳の道を歩もうとするが、霊的指導に従わず、自分の考えに固執すること。

以上の小罪をさけようと努力しないならば、信心行から何の利益も生じない。霊的完徳のいちばん下の段階にすら達することができない。
そのほか、おくめんもなく嘘をつき、偽善をおこなうことも大きな妨げである。
小罪におちいらないためには、どのようなことをしなければならないか?

そのためには、
・大罪をさけるための手段を全部実行し、
・感覚と想像を抑制し、
・小さなことがらについても、犠牲の精神を養うことである。」

(2014年7月29日)

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黙想2-地獄について

今日も晴れてよいお天気です。梅干しの土用干しを一昨日あたりから始めました。梅の見た目はふっくらとしてよい感じに仕上がってきています。
さて今日は、昨日の黙想の続きです。地獄についての黙想です。初心者は、黙想のための準備は最初はとばして、テーマを思いめぐらすことからはじめてもかまいません。しかしカトリック信者は準備、感激、決心を黙想の前後に致しましょう。なぜなら、黙想の’きも’は最後の決心にあるからです。
聖母が90%以上の死者が地獄へ落ちています、と言われた時その原因のほとんどが肉の罪であると言われました。同性愛、不倫、レイプ、小児性愛等許されざる肉の罪とその他の大罪によって霊魂は地獄へ落ちます。たった一つの告解しない大罪によっても地獄へ落ちるのです。地獄を避けるためには、どんなつらい事でもやるべきです。なぜなら天国も地獄も永遠だからです。

準備(昨日の記事の準備の2項を参照)ー「硫黄と,悪臭の瀝青(れきせい)とに燃え、脱出することあたわざる市民にみちみちたる、暗黒の城市を想像せよ
省察-堕獄(だごく)のやからの、地獄の深淵中における、あたかも、この呪うべき城市の中にあると等しく、かれらは、その官能・身体に、舌にも筆にも,いい現わすことのできぬ呵責(かしゃく)を受けるのである。すなわち彼らは、その官能・身体を罪のために悪用したために、罪の罰を、その官能と身体に受けるのである。眼は、その視覚をもって犯したる罪のために、悪魔と地獄との恐ろしい光景を見て苦しみ、耳は、邪悪(よこしま)なる談話を喜びしがために、今聞くものは、涙と、嘆息と、絶望の声とのみである。その他も、またこれに準ずる。
これらの呵責のほかに、もっと大きな苦しみがある。すなわち、天主の栄光を失って、再びこれを見奉ることあたわざることである。アブサロムは、父王、ダビィドの温顔にまみゆるを得ざりしを、その流離(さすらい)よりも、なお一層苦痛に感じたという。ああ主よ、主の甘く、やさしき御面(おんおもて)を永遠に失うは、いかに口惜しかるべき。
わけても、この刑罰のつくる時なきを思え。これが、すなわち、地獄を耐えがたくするゆえんである。耳の中に入った一匹の小虫,少しばかりの発熱などが、短い一夜を長く思わせ、わずらわしくする。はたして、しからば、このあまたの呵責を蔵する永遠の夜は、いかに恐るべきであろう。この永遠よりして、永遠の絶望、つきざる呪詛(のろい)と、凶暴とが、生まれ出ずるのである。
感激と決心―ヨブのことばをもって、汝の霊魂を恐れしめよ。『ああ、わが霊魂よ、このつきざる炎熱と、万物を焼き亡ぼす火焔とのうちに、汝はなお永遠に生くるをうべきか。汝は、汝の天主を、永遠に離れ去ろうと思うのか。』
汝がこの刑罰に値(あたい)することを懺悔(ざんげ)せよ。ああ、それも、そもそも、幾たびであったろう。さらば、以後は、異なる道をとり、いかで、この深淵に下(くだ)るべきぞ。
ゆえに、この永遠の死をわれに与うる唯一の原因なる罪を避けんがために、なになにの努力をしよう。感謝し、献(ささ)げ、祈れ。


(2014年7月26日)

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夏休み…黙想

今日もよいお天気です。青空です。朝早くにデッキに洗濯物を干しました。小さなクモが何匹か物干しにいました。田舎生活で、困るのは虫たちのことです。もうずいぶん慣れたつもりですが、アリもクモも迷惑です。せっかく実った桃がアリに齧られていました。袋をかけなかった私が悪いのですが、来年は袋をかけようと思います。
この村の子供たちも夏休みに入りました。私の生活はふだんと変わりませんが、気分的には夏休みモードです。十数年前に聖母は、私たちに黙想をするようにとおっしゃいました。一つのテーマあるいは本の内容(基本的に聖書やカトリックに関わること)を静かな環境で思いめぐらすのです。自分の部屋や聖堂で黙想します。黙想で大切なのは、準備があることです。聖フランシスコ・サレジオの『信心生活入門』からその霊的準備を引用します。

1、天主の御前に出でて、
2、天主をよび求めよ。(あるいは、)へりくだりて、主の汝に語り給わんことを願え。

3、省察:黙想のテーマ(天国あるいは地獄など)
終わりに、
4、感激と決心
5、天主へ感謝をする。


夏休みにしばしばシスターや聖職者たちは黙想会などに参加するようです。明日は聖フランシスコ・サレジオの「地獄について」の省察の部分を引用したいと思います。20年くらい前に聖母は、今死ぬ人の90%がまっすぐ地獄へ落ち、5%が煉獄へ行き、残りがまっすぐ天国へ行きます、とおっしゃいました。その時、霊魂が地獄へ雪が降るように落ちてゆくと表現されました。時代は20年前よりも悪くなっています。ですから、怖ろしいことにほとんどの人が地獄へ落ちると言ってよいのです。天国へ行くには善人でなければなりません。黙想は自分の霊魂を救うためにとても役に立ちます。(2014年7月25日)

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ブルーベリー

カトリックの教え

今日はとてもよいお天気で、青空が素晴らしい。久しぶりに夏という感じです。最近は雨ばかりでずいぶんすずしく過ごしやすかったのです。ちょっと見ないうちに、ブルーベリーの実がほとんど食べられてしまいました。犯人は小鳥でしょうか。また、今年は液肥をあげて大きな葉の元気だったイチジクがどうしたわけか枯れていました。木には、突然枯れることがあります。門のそばに植えて花を毎年つけていたハナミズキが去年突然枯れました。理由がわかりません。
話は変わって、聖体拝領のことです。御聖体は、カトリック信者だけが受けられます。カトリックの洗礼を受けていない人、大罪のある人、同性愛者は聖体拝領はできません。ミサには、洗礼を受けていなくとも参加できます。望めば、聖体拝領の列に並んで、司祭に「祝福をお願します」と小さな声で言い、頭を下げます。祝福をいただくことができます。大罪のある人と同性愛者は祝福を受けられないと思われます。神に背いている状態で、祝福を受けようとは矛盾しているからです。罪を痛悔し告解を受け、罪の原因を取り除いてからミサに参加すべきです。長年教会を離れていた人は痛悔し、告解した後に、ミサに与り、聖体拝領すべきと思います。日曜日のミサに与ることはカトリック信者の義務です。日曜日のミサにあずからないことは大罪になり兼ねません。命にかかわるような重大な事情あるいは愛徳のために日曜日のミサに与れないことは大罪ではありません。たとえば死にそうな人を病院に連れて行くためにミサに出られなかったということは愛徳の業です。
(2014年7月21日)

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イエズスの受難

償いの季節


今日は、起きたら、雨が降っていました。暖かいのです。雪が溶けて家の前が泥んこになってきました。毎年の悩みです。砂利をひいていましたが、元田んぼのせいか砂利がしずんでしまい、次の年にはぬかるみがちになります。ストーブのために薪を割るとでる木くずがいっぱいあったので、それをひいてみました。グレイの小屋のまわりと家の前にひきました。なかなかいいです。田舎生活は無駄になることがないというところがいいです。食べ残しは小川の魚や犬に、野菜くずは堆肥づくりに利用出来ます。

四旬節は償いの季節です。カトリック信者は40日間(日曜日は除く)なにか好きな食べ物を一つか二つ断食します。犠牲にするのです。たとえばチョコレートアイスクリームとかお寿司とかです。10年くらい前に聞いたおしんこ好きな方はおしんこを食べないという犠牲を40日間実行していました。

『毎日のミサ典書』には、「この期間には、また、断食だけではなく、善行と祈りを特に行わねばならぬ。
要するに、四旬節は、十字架の光栄に向かって徐々に上っていく姿にたとえてよい。最初の4週間には、人間の救い主であるイエズスを、人間の師として紹介し、その御言葉を教える。第五週目には、枝の主日をもって、神の羔でありメシアである使命を最後まで完遂し給うキリストの御心を知らせ、この期間、一日一日、キリストの受難の日々を生きるようにと信者に教える。
四十日という数は、聖なる準備の数と考えられていて、元来は、旧約時代のいろいろの出来事から出ている。すなわち、大洪水の四十日、選ばれた民が砂漠で生活した四十年、モイゼの祈りと断食の四十日、また新約に入っては、主イエズスが荒野で過ごし給うた四十日がある。」と説明されています。(2013年3月13日)


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:死を想う

毎日、書くテーマについてはっきりしない時や思いつかない時は、聖櫃の前で黙想するか、聖櫃のイエズス様に相談します。そうするとたいていヒントやこれについて書きなさいという示唆が聖櫃から飛んできます。アイデアが飛んでくるのです。
今日のテーマもそうでした。死者の月ですから、死について書くのは妥当だと思いますが…。人間はいつか必ず死にます。早いか遅いかの違いだけです。死ねばその行き先は、天国か地獄かのどちらかです。煉獄に寄って罪の償いをして天国へという道もありますが、煉獄の霊魂は天国行が確定している、祝福された聖なる霊魂なのです。
罪を犯しかねない重大な誘惑を感じたとき、地獄の恐ろしさ、悪魔とともに永遠に過ごさなければならないことを思えば、罪を犯す誘惑から逃れられます。地獄に落ちた霊魂が、「もっと司祭が地獄について説教してくれてたならば…」と恨み言を言っていました。たったひとつの大罪を告解しないために、地獄へ落ちた霊魂がたくさんいるのです。サタンは罪を犯すときには取り去った羞恥心を、告解のときに霊魂に返します。霊魂が救われないように。恥ずかしくて、大罪を告解できないように恥じと失望とをささやきます。このサタンの誘惑から逃れるためには、聖母により頼むことです。ロザリオを祈ることです。
カトリック信者は(特に修道者)、毎月日を決めて死について黙想するよう昔は指導されました。静修*と呼ばれていたと思います。
四終という言葉が公教要理には出てきます。人間の生活の最後に起きることがらです。死・審判・地獄・天国の四つです。ピオ十世の公教要理には、次のようにあります。「死はこの世の人にとっては最後に起こること、神の審判は人の受けるべき裁きの最後のもの、地獄は悪人が受ける最悪のもの、天国は善人が受ける至福の栄光のことです。」
「四終について考えれば罪を避けるために効果的ですから、毎日、特に起床の祈りと就寝の祈りのとき、そして誘惑を感じたときに四終について考えなければなりません。」
審判には、死の直後に受ける私審判(霊魂の個人的な罪の裁き)と公審判(霊魂と肉体が共になり復活して、全人類が受ける公開の裁き)があります。公審判では、罪が公に裁かれるのです。天国へ行く霊魂はその栄光のため、地獄へ行く霊魂はその罪と恥じのため、公けに裁かれるのです。

*良い死の練習


(2013年11月9日)

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天国へのイメージ

11月は…

11月は「死者の月」と言われます。カトリック信者の死者が煉獄にいれば、一番望むものは、ミサを自分のために捧げてもらうことです。今は、死者の80%から90%が地獄へ行くと聖母のメッセージで言われています。サンダミアーノの聖母が30年くらい前にいわれたのは「80%の死者が地獄へ雪が降るように落ちています。」と、その後メアリー・ジエーン・イーブンには「90%以上の死者が地獄へ落ちています。ある日には一人も救われなかった(全員地獄へ行った)」と聖母が言われたことがありました。肉の罪によって地獄へ落ちると聖母ははっきりおっしゃいました。同性愛、不倫、ポルノグラフィ等による罪で地獄へ落ちるのです。痛悔しなければ地獄へ落ちます。
残りの20%から10%の死者のうち天国へまっすぐ行ける者は5%くらいだというのです。残りの15%から5%は煉獄へ行って苦しみながら罪の償いをします。ミサにより償いの期間が短縮されます。ゆとりがある人は、ミサを司祭に頼めます。お金のない人は、ミサに与り、その恵みを死者に譲ることができます。贖宥(免償)は、死者のみに譲れます。
伝統的にカトリック信者は、死者の月に親せき縁者、友人のためにミサを司祭に依頼します。ミサ依頼の金額は、その地方によって違いますが、大体3000円~5000円くらいです。東京では、10年くらい前までそうでした。ミサ依頼はカトリック信者でなくとも司祭に依頼できます。死者はミサによって大いに慰められ天国に入るか、煉獄のレベルが上がり、天国に近づきます。おミサを捧げてもらうことで、死者は大いに慰められ、捧げた者には霊的な個別的な恵みがあることが多いようです。煉獄の霊魂のためにミサを捧げた孤児がその日から運命が変わり幸せな人生を歩んだというようないくつかの話が『煉獄の霊魂』の本にありました。天国へはいった霊魂は、恩を決して忘れません。あなたが天国へ来るまで、あなたのために祈るのです。地上で真の友達が一人もいなくとも、天国に真の友ができるのです。

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私審判

イエズス・キリスト

人生の夕べには…

人生の夕べには、愛について裁かれるだろう。これは、十字架の聖ヨハネの言葉です。死の時、イエズス様の御前の私審判において、私たちはこの地上での自分のしたこと、しなかったこと。言ったこと、言わなかったこと、そして人生のいっさいについて裁かれます。十字架の聖ヨハネによれば、愛について裁かれるのです。愛したことと愛さなかったことについて。愛という視点から裁かれるということなのでしょう

'堅信'

*堅信の秘跡とは、受洗者が信仰をはっきりと公言し表明した信仰に恥じない生活をすることができるように、聖霊によって強められる秘跡で、按手と聖香油の塗油と祈りをもって授けられる。堅信は救いを得るために絶対不可欠のものではないが、キリスト教的完徳の域に達するためには非常に重要であって、適時この秘跡を受ける重い義務がある。(2013年10月3日)

ロザリオ

ロザリオの月、臨終洗礼

10月になりました。10月はロザリオの月と言われています。いつもよりも少しだけ、たとえば1連余計にロザリオを祈るとよいかもしれません。聖母は、ロザリオを私たちが祈ることをとても望まれているからです。聖母の願いに応えれば、必ずや聖母マリアは私たちの願いを無視なさらないでしょう。ただし主イエズス・キリストの意向(御旨)に反しない限りにおいて。
今日は曇りです。2,3日前にとても寒い日がありました。訪ねてきた村人がストーブを焚いた、と言っていました。気持ちの良い秋が駆け足で過ぎて、冬がまじかに来てしまいそうです。

これからの時代は何が起こるかわかりません。いつ何時人の死に立ち会うことになるかもしれません。霊魂を救うことは一大事業なのです。故レオ・スタインバック神父様が配られた「臨終洗礼の授け方」からの抜粋を下記に載せます。知っていれば霊魂を救うことができます

「…時としては洗礼を受けていない人でも他人に洗礼を授ける場合があります。私の知っている求道者の方はある結核療養所で、自分の部屋の一人の方が突然喀血した時、急いで洗礼を授けました。後で私が調べましたらその求道者の洗礼を授ける仕方は正しいでした。有効でしたから新たに洗礼を授ける必要はありませんでした。
臨終洗礼あるいは年寄りの方に洗礼を授ける時に注意すべきことは、あまりに長い不必要な話をしないことです。私は多くの方に臨終洗礼を授けたことがありますが、準備の話は病人の状態によります。重症の方は十分以上話せば逆効果になります。病院においても十分以上話すことを禁じられる場合があります。私も重病の時お客さんが十分以上話しましたら大変つかれて,早く帰ってほしいと思いました。
洗礼の準備はなるべく短くして、必要なことだけを話して、不必要なことを言わないことが何より大切だと思います。日本人はほとんど百パーセントまで霊魂の不滅をしんじていますから、そのことについて詳しく説明する必要はありません。一番大切なことは罪を痛悔することです。人を憎んだり、恨んだり、嘘をついたり、あるいは堕胎の罪を犯したり、そのような自分の犯した罪を全部、真心こめて痛悔して、”神様よ、どうか私の罪をお赦しください”と言わせたらよいのです。また”イエズス様がおっしゃったように、他人を許さなければ自分の罪も赦されませんから、過去においてあなたを憎んだ人がいるならぜひその人を赦してあげてください。そうしたら神様もあなたの罪を許してくださいますから”と説明すればたいていの人はその通りにします。
洗礼を授けるときに霊名を先に言います。私はふつう臨終洗礼の場合、男だったら「ヨゼフ」,女だったら「マリア」という名をつけます。”ヨゼフ、われ聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊との御名(みな)によってなんじを洗う”と水を注ぎながら(*1)唱えたら、その方の罪は、もちろん、その方の罪の罰までもきれいに赦されます。
場合によっては神父に臨終の洗礼を頼まないで自分で洗礼を授けた方がよいと思います。神父を呼ぶのに非常に面倒な場合がありますし、また、病人の周囲の人が理解しない場合もあり、また、時間もかかりますから自分の手で洗礼を授けるのが一番簡単と思います。なるべく危篤にならないうちに洗礼を授ける方がよいのです。早いほどよろしい。
洗礼を授けてから、聖母のスカプラリオ、メダイ、あるいはロザリオなど差し上げたら大いに役立ちます。…近い将来この国においても、災難がふえると思います。その時カトリック信者は、自分の親戚、友人、あるいは知らない人の霊魂を救うために奔走しなければならないと思います。ただ一人の人でも霊魂を救いましたら、その救われた人はいつまでも天国において、あなたに感謝することでしょう。」
*1額の上を水が流れなければならない。

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