終末の時―大警告・再臨におけるカトリックの伝統と正統な信仰を求めて

2018年1月

2018年1月

文字サイズ:

ヨゼフ・マリ・ジャック神父
「静香」さんから百千鳥に投稿されたものです。かつて日本にはこのような司祭がいたのです。


1982年にある司祭が日本の司教団に対して書いたもの(もう亡くなっている司祭)。その中のある部分を読んで涙が出そうになりました。苦しみが伝わってきます。(静香)

「私は、ここで、特に、我が教区の司教であられる、濱尾文郎閣下に対し、私の、聖職者としての良心にかかる重大問題を、日本司教協議会の前に、申し述べるよう、お勧めくださったその、御配慮と、御親切に、心より御礼を申しあげます。

イエズス・キリストの代理者なる、聖なる教皇の命令に従うことによって、私の尊敬する司教様のお望みに、抵抗を、感じなければならないことは、私に、生れて初めて、死する程の憂いを、覚えさせます。

聖会に忠実であろう、とするために、その同じ教会から、これ程の苦しみを受けることは、決して、想像できることでは、ありませんでした。この時代、人々は、今までにない暴力と、拷問の、苦しみの時代に、生きています。

しかも、聖なる教会までが、自分の子どもらを、拷問する時代にまで、なっています。このことについて、私は、多くの例を出すことができます…

とにかく、どんなことであっても、自分よりも遥かに愛する、この聖会に、いつも、服従いたします。

正しさをもって、教会に勝つよりも、むしろ、間違っても、その教会に従って一緒に損する方が、信仰においてましだと思っております。

しかし、それと同時に、白状しますと、自分の良心に背きながら、手で御聖体を授けることによって、イエズス・キリストの尊い御体を汚すよりも、即座に死ぬほうが、私にとって、ましであると、告白いたします。

何故なら、私の、司祭としての良心には、このことは、全ての不敬に、戸を開くことであって、それは、信仰と、愛と、特に、謙遜の欠けた処から生じてくる甚だしい涜聖だからです。」(「口でのご聖体拝領に関する弁論」ヨゼフ・マリ・ジャック神父著より抜粋)


(2018年1月10日)







90%

ジム・カヴィーゼル
―「私たちは福音のために命を懸ける覚悟のある『戦士』でなければなりません

2004年にキリストの受難を描いた映画『パッション』が公開されました。その映画でイエズス・キリストを演じた俳優がジム・カヴィーゼルです。

アメリカ合衆国のシカゴで、正月の2日から昨日の6日まで、FOCUS(カトリック大学学生協会)の主催でSLS18(学生幹部サミット2018)が開催されました。

その会合に、3日の水曜日に『パッション』スターのジム・カヴィーゼルがサプライズで登場しました。

そこで彼が語ったこと、それは生ぬるい信仰生活を送る者たちの横っ面を張るような内容でした。

カトリック教徒は世の悪を打ち負かすために命を、評判を賭ける覚悟がなければならない、と彼は言います。

信仰とキリストの教えによってのみ私たちは救われるとカヴィーゼルは語り、と同時に救いには戦い、犠牲をし、苦しむ覚悟のある人たちが必要だとも語りました。

聖マキシミリアン・コルベを引きながら彼は、無関心は20世紀の、そして21世紀の最も大きな罪であると語ります。

私たちはこの無関心、この悪に対する破壊的な寛容さを打ち捨てなければなりません。しかし、信仰とキリストの教えだけが私たちを救うことができるのです。しかし救いには、真理のために自らの評判を、名を、そして命さえをも賭する覚悟のある戦士が必要です

この腐敗した世代から自らを引き離しなさい]俳優は聴衆に訴えかけます。「聖人たれ。皆さんは(腐敗に)なじんでしまうために創造されたわけではありません。抵抗するために生まれたのです


これから公開される『パウロ―キリストの使徒』の出演の経験が、神の眼に偉大であるためには、私たちは先ず小さき存在となり、神を完全に受け入れ、神が私たちを導くに任せることだと知ったと彼は語る。

カヴィーゼルはまた苦しみの重要性についても語り、一般に普及している誤解―キリスト教とは「幸福な語らい」であるということをも非難しました。

彼は、いかにして(役者としての)初期の役がメル・ギブソン監督の『パッション』でキリスト役を演じることに繋がったかを語りながら、自分が演技することに呼ばれたのは偶然ではないと言いきります。

カヴィーゼルはFOCUSに集まった学生たちにも、彼らの人生は偶然の連続から成り立っているのではないと語りました。

あなたたちの中には現在惨めな、混乱した、未来に不安を覚える、心痛む生活を送る人もいるかもしれません。しかし、今は引き下がったり、屈したりする時ではありません

彼は、キリストの役を演じ切ることでいかに大きな試練、苦しみを味わわなければならなかったかを語った。それは鞭打ちや磔刑、雷に打たれるシーンの肉体的苦しみ、5か月間低体温症で苦しんだ後の心臓手術をも含む試練でした。

十字架を担う撮影中にカヴィーゼルの肩もまたはずれ、彼はそのシーンの撮影終了までそれを我慢しつづけたたのでした。それはまるで償いのようだったと彼は言います。

私が十字架に掛けられたとき、キリストの苦しみは私たちの贖いであることを悟りました。僕は主人に勝らないということを思いだしてください

私たちは一人ひとりが自分の十字架を背負わなければなりません」彼は続けました―「復活―実際には私たちの救い―には大きな代償がいるのです

☆☆☆

わが母は神と人間の仲介者としてあなたたちを訪れてきた。彼女は多くのバラをあなたたちの元へ送り、まき散らす。多くの者には刺があるーバラに刺はつきものだ。わが子よ、わが子供たちよ、あなたたちはいつもバラの下に十字架を見出すだろう。
天国への道は十字架の道である。自分の十字架を担い私に従いなさい。その道は狭く、留まるものは非常に少ない。多くの者が呼ばれるが選ばれる者は少ない。変わらずにいなさい、わが子供たちよ。忠実でありなさい。忠実で真実でいなさい、そうすればあなたたちは救われる
」(イエズスのヴェロニカ・ルーケンへのメッセージ 1979年7月25日)&

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional